[2145] ♪くもりぃガラスのぉ まどをたたいてぇ 831列車 2004/04/01(木)0:01 [メール]
またひとつ春を迎えてさよならの季節・・・。
私たちにとってはなぜか馴染み深かったSマークと「営団」の文字が消えてゆきました。「帝都」とともに戦中戦後の時代を色濃く残していたものがまたひとつなくなったということですね。というより物心ついて鉄道に興味を持っときすでにあった言葉が消滅するのにむしろ時代の変化とともにさびしさを感じるということなのでしょう。

ドリフターズのことですが、私もそれほど好きだったわけではありません。無論世代的には「全員集合」、つまりお笑い&バラエティ時代のドリフのことですが。いかりやさん始めグループの功績や人気には敬服しますが、「日本のお笑いの第一人者」はともかく「ある時はPTAからワースト番組とか有害だと非難されつつも多くの子供達に愛され・・・」という昨今のTV報道にはすべて「その通り!」とうなづく気にはなれないのです。

よく言われる「食べ物を粗末にするコント」ということは私も感じていました。数多かったたまごや食べ物をむやみにお笑いに使う姿勢はあの頃もいい感じはしませんでしたし、まだメンバーでなかった志村けん氏が奇声を発して走り回るシーンは無意味だしとても面白いといえるようなものではなかったと思います。(あれも台本通りだったのでしょうが)それとコントのあとの「合唱隊」ですが。後年紅白にも登場した有名なコーナーでしたが、人によってはあのコーナーは許しがたい、と思っていた方々もいたのです。(少数派でしょうが)賛美歌などを唄う教会の合唱隊を模したものなのでしょうが。子供時代私の周辺に教会関係者もいて、一緒ににあのコーナーを見ているたびのに「合唱隊をお笑いに使うなんて・・」と苦々しい顔でいつもつぶやいていたことがありました。

お笑いの質がどうこういうよりこれは好き嫌いになってしまうのでしょうが、さっしいさんのいう通り、私も荒井注氏脱退以降はやっぱりいまひとつドリフには思い入れはなくなってしまいました。

久々の書き込みなので支離滅裂、お許し下さい。

http://d51155.web.infoseek.co.jp/

[2146] 昭和懐古サイトでも結構ですよ さっしい 2004/04/01(木)20:56 [メール]
▼志村TCさん▼
「決断」はリアルで、重みがありましたね。
「人生で最も貴重な瞬間、それは決断のときである」でしたっけ。
日本が勝ってる頃のエピソードならいいんですけどねぇ、
栗田艦隊の敵前大反転なんかは、歯軋りしながら見てましたっけ。

「清水次郎長」は、あおい輝彦の森の石松も、なかなかの好演でした。
近藤正臣の追分三五郎、田辺靖男の桶屋の鬼吉、
太田博之は…なんでしたっけ? ともかく豪華配役でしたね。
高品格の「ども安」は適役という感じでしたが、
あの「太陽にほえろ!」の山さんが、悪役ともいえる黒駒の勝三。
「へっへっへ」という嫌らしさたっぷりで、印象的でした。

鶴田浩二は好きでしたが、「次郎長三国志」は見ていませんでした。
朝の連ドラは「おはなはん」以来見ていませんでしたが(ふる〜!)
先月までの「てるてる家族」は、ビデオに撮ってまで見ていました。
大ファンだった、いしだあゆみさん物語でもありましたからね。
でも上原多香子の「ブルーライトヨコハマ」は、ちょっと雰囲気が違って…
「あなたならどうする」まで歌ってくれたのは嬉しかったですけれど。
しかし、数寄屋橋の原寸セットですか。すごいですね、見たかったな。
「帝都物語」とか「ハチ公物語」とか、都電も再現されることが多いですね。

月影兵庫と花山大吉の関係は知りませんでした。近衛十四郎、良かったです。
ボンカレーは、やはり松山容子の方が、印象は強いんでしょうけれどね。
アースの水原宏や由美かおると共に、ホーロー看板がありましたっけ。

http://homepage1.nifty.com/sassy/

[2147] あぁ〜、あれは春だったね〜♪ さっしい 2004/04/01(木)21:25 [メール]
▼831列車さん▼
春ですよねぇ、また始まった新年度。
でも、京王帝都に続いて、ついに帝都高速度…も消えちゃいましたか。
先ほど東京の友人からメールが来て、あの数字は何じゃ〜?と。
東西線の神楽坂なら「T05」なんですね。ま、併用なら許せるかな。
営団地下鉄は、実は都電よりも前から、僕の鉄道趣味の対象でした。
あの頃はむしろ、新しい線の開通に胸を躍らせていましたからね。
小学校時代、出来たばかりの東西線を友達と乗り歩くのが楽しみでした。
「S」マークは、授業中よくノートに描いていたので、懐かしいです。

ドリフに関しては、やはり親は良い顔をしていなかったので、
過激なネタはやめて欲しいと、心の中では願っていました。
心証を悪くされて、視聴を禁止されては困りますので。
ですから、食べ物ネタや「ちょっとだけよ」にはハラハラしていました。
賛美歌コーナーはそうですか、そういう見方もあったんですね。
布施明や前川清といった大物歌手もギャグをやるのが楽しかったですが。

そういえば「全員集合」という番組では、
歌手の歌を聴くのが、一番の楽しみだったかもしれません。
あそこで新曲を初めて披露する歌手も多かったみたいです。
キャンディーズの体操や、ゴールデンハーフもいいけれど、
注さんの「なんだバカヤロ」が聞けなくなったと同時に、
ドリフそのものからも、自分は離れて行ったように思います。

今のお笑いでは、関西系というのか吉本系というのか、
どうもあの路線を自分は好きになれず、面白くもありません。
個人的には、たけしは好きでも、さんまはどうも…という感覚でして。

ところで題名ですが、拓郎さん、見事に復活したようですね。
去年のライブのCDが出たので早速買いましたが、
DVDのおまけ付きという、何とも豪華な…
やはりちょっと、やつれた表情かなとは思いましたけれど。
でも「人生を語らず」など、大いに吼えてくれて嬉しいです。

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[2149] ★都電運転系統図の訂正★(業務連絡?) さっしい 2004/04/02(金)20:54 [メール]
当サイト内「ぽこぺん都電館」にある運転系統図ですが、
9系統に関して、一部誤りを発見しましたので、訂正します。
誤りというよりも、補足というべきなのでしょうが。

あの図は「昭和37年を基準」にしてありますので、
その時点で9系統が「渋谷駅前−浜町中ノ橋(一部森下町)」
というのは問題ないのですが、他に臨時(例外)系統として、
「渋谷駅前−新佃島」を、別途掲載すべきでした。
そして、昭和38年10月1日からの、9系統の経路変更と共に、
そちらの例外系統は、一旦廃止となります。

しかし、昭和42年12月10日からの、ルート再変更の際に、
行き先が変わって、渋谷駅前−新佃島が(別経路で)復活し、
浜町中ノ橋方面への運転は廃止になった模様です。
その後1年も経たないうちに、系統自体も廃止となりましたが。

遡って、昭和26年の案内図によれば、月島への方が本系統、
水天宮へが臨時系統となっていたようですから、それも含め、
9系統は、最も変動の多かった系統といえるのではないでしょうか。

ページの修正については、画像ファイルの作り直しを要するので、
すぐには対応できないと思いますが、悪しからず。
どなたか、何かご存じのことがありましたら、ご教示下さい。

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[2150] うれしいです。ハイ(*^_^*) みぞっち 2004/04/02(金)23:00
はじめまして。購読しているメルマガ(1965年にタイムマシンで)での紹介を
みてやってきました。今は故郷に戻っていますが、かって東京で8年あまり働き、また
鉄道とレトロなものが大好きな私にとって「ぽこぺん都電館」との出会いはとても
嬉しいものです。これからも「ぽこぺん都電館」以外のところも含め、ちょくちょく
お邪魔したいと思います。(^^♪


[2151] 光栄です さっしい 2004/04/03(土)0:04 [メール]
▼みぞっちさん▼
はじめまして。書き込みありがとうございます。
しかし、そんな所で弊サイトが紹介されているんですか?
知りませんでした。光栄のような、恥ずかしいような。

1965年となると、オリンピックの翌年ですから、
まだ、国電や地下鉄に乗っては喜んでいただけの頃ですが、
今回そのメルマガでは都電の路線図が評価されたようで、
とても嬉しく思いました。(結構こだわって作りましたからね)

ぽこぺん本館の方では、今のところ昭和40年代の私鉄を中心に、
路線や車輛の紹介をしていますので、ごゆっくり御覧下さい。

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[2152] 弥七も… さっしい 2004/04/03(土)16:53 [メール]
風車の弥七さんも亡くなりましたか…
僕の中で黄門さまは、東野英治郎さんのままなのですが。
それにしても最近、有名な役者さんの訃報が続きますね。

ついでと言っては申し訳ありませんが、[2146]の文中で、
水原弘さんの字を間違えていましたね。失礼しました。

話は違いますが、あんなに若くて可愛い美人と結ばれるなら、
自分も「抱かれたくない男No.1」と言われたっていいかなと、
そんなことを思う、今日このごろです。
ミーハー芸能ネタにて失礼。

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[2153] お花見 おすし 2004/04/03(土)22:03 [メール]
 こんばんわ。
 ご無沙汰してしまって。
 
 表紙の京浜急行で、お花見させて頂きました。
 さっしいさんには、私の方のお花見をして頂いて、有難うございました。
 チョと、お礼が遅いですが。
 私事ですが去年、今年とサクラは沢山見ました。

 [2149]系統図訂正
 そうなんですね、私の中では9系統は月島行きなんです。
 浜町中ノ橋なんて。(お住まいの方には恐縮ですが)

 9番は月島行き、たまに勝鬨橋行きなんてのが来て、乗らなかったんですから。
 日比谷で降りるのに。
 小学校、2年生のころ。古い話で。

http://members.jcom.home.ne.jp/osushiyo/romen0.html

[2154] 団子もいいですね さっしい 2004/04/03(土)22:48 [メール]
▼おすしさん▼
今週のトップの横浜・神奈川区が僕の「第三の故郷」であるならば、
おすしさんの掲示板にあった市ヶ谷の桜は、
「第一の故郷」のものでしたので、特に懐かしく拝見しました。

明日は、せっかくの日曜なのに雨だそうで、
今年の桜は、今日が一番の見頃だったのでしょうか。
入学式までは何とか待ってほしいところですが、
本当に、花の命ははかないものですね。
それだから尚のこと、人々に愛されるのでしょうか。
桜の樹の下には屍体が埋まっていると言った人もいましたけれど。

都電に関しては、実体験に基づくお話、ありがとうございました。
あれ? でも勝鬨橋行きでも日比谷は通ったんですよね?
なんだか微笑ましくて、ちょっぴりせつないお話ですね。

9系統の経路については、まぁ、図の中に注釈として、
「※ S.26頃は【渋谷駅前−月島通八丁目】」としてありますので、
それにて一応お許し頂きたいと思います。
交通局発行の案内図でも、はっきりしない部分もありまして…。
昭和30〜42年頃は「水天宮浜町」の方向幕での運行が主だったのでしょう。
(運転系統図ページ下中央の「注釈」リンクも御参照ください。)

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[2155] 花の色は〜♪ さっしい 2004/04/03(土)22:57 [メール]
▼学生諸君 & どなたでも▼
今週のトップ画像のキャプションの文中には、
桜に関する三首の和歌の一部を載せてみました。
どれも有名ですが、それぞれの「作者」を当ててみてください。
和歌の全文も覚えていたら、かなりの古典文学通でしょうね。

<ヒント>
・1首目(花のもとにて春死なむ)------昔は佐藤さん
・2首目(花や今宵のあるじならまし)----キセル乗車
・3首目(花よりほかに知る人もなし)------百人一首

…って、まるで国語科の先生みたいに。

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[2156] 拓郎さん TADA 2004/04/03(土)22:59
TOPはまさに時期ものですね。
毎年桜の時期になる前はどこか写真を撮りに行こう、と思っているのですが、いざそのころとなるとついめんどくさくなってしまって・・・
明日あたり市谷のあたりでも散歩しようかな。

拓郎さんといえば3月で終わってしまった深夜アニメ「魁!クロマティ高校」のオープニングテーマが拓郎さんで、そのミスマッチがなんとも可笑しかったです。

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[2157] どけ〜そこどけどけ〜♪ さっしい 2004/04/04(日)0:06 [メール]
▼TADAさん▼
僕もわざわざ撮りに行ったというのは、この年ぐらいかな。
京急も東横も相鉄も、みんな同じ時期だったと思います。
近頃は、花だけは良くデジカメでも撮るのですが、
かえって鉄道の方はさっぱりで、鉄ちゃんの称号も返上かも。
予報によれば、明日は「冷たい雨」だそうで、残念です。

拓郎さんのその歌は「純」でしたっけ?
アニメは全く知らないのですが、以前の拓郎節みたいで好きです。
去年のプロ野球中継の「ホームラン・ブギ」も良かったですが。

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[2158] ひとつだけ すみじ 2004/04/04(日)0:13
ご無沙汰しております。すみじです。お元気そうでなによりです。

さて、学生諸君と言われるにはかなぁ〜り薹が立ってますが…。

>・1首目(花のもとにて春死なむ)------昔は佐藤さん

はい!せんせ〜。
西行だと思います。

平家物語に出てきたような気が…。
武士を捨てて仏門に入って諸国を放浪されてたような…。
だから、最期は桜の下でって言ったような…。

なんもかんもうろ覚えです、正しいところをご教授くだされ。


[2159] 薀蓄 さっしい 2004/04/04(日)8:36 [メール]
▼すみじさん▼
おひさしぶりです。蕗の薹なら立ってもいいんですけどねぇ。
(それにしてもMSゴシックの「薹」って、すごい略字)

早速のお答えありがとうございました。
こういう場では反応がないかな、とも思っていましたが、
逆に鉄ネタ以外でないと参加してもらえない方もいましたっけね。
どんな内容でも構いませんので、時々書き込んでくださいね。

で、1首目の歌ですが、見事に正解です! 作者は西行法師。

  願はくは 花のもとにて 春死なむ その如月の 望月の頃

西行は、元・北面の武士で、俗名は佐藤義清(のりきよ)。
ある日突然出家を思い立ち、妻子を捨てて旅立ったそうです。
足元に縋って引き止める子供を、縁側から蹴落として。
今で言えば、脱サラと放浪願望だったのでしょうか。
諸国を巡り、歌を詠み、鎌倉幕府の頼朝にも招かれていますが、
語り明かした後、贈られた銀製の猫を、惜しげもなく、
そこらで遊んでいた子供に与えてしまったとか。
(その子の親は、喜んだろうなぁ)

歌の意味は簡単で、願うことなら、如月(きさらぎ=2月)の、
望月(もちづき=満月=15日)の頃、桜の花の下で死にたいと、
自分の死ぬ日の希望を歌ったものです。

陰暦2月15日は、お釈迦様が涅槃に入ったとされる日。
そして今の暦に直せば、ちょうど3〜4月頃の桜の季節なんですね。
西行は、ほとんどこの希望通り、2月16日に亡くなったそうです。
15日ちょうどじゃなかったところが、また詩的だと思いませんか?

以上、さっしい先生の古典文学講座でした。
2首目・3首目は、いかがでしょうか。

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[2160] お花見! RRE 2004/04/04(日)8:45 [メール]
さっしいさん お早うございます。トップ画像は美しいですね。

満開の昨日は早速、近場の阪急沿線で桜と絡めて撮れる場所を幾つか(苦楽園口、岡本、武庫之荘、崇禅寺など)廻って来ました。
小生の自宅から徒歩2分の場所にある苦楽園口(夙川の河原)では、早朝から場所採りでビニールシートの上で寝寝ころんでいる人や、もう宴会を始めている人々で賑わっていました。この季節になると周辺の道路は終日違法駐車の群で込み合い、車ではとても出掛けられません。
本日は朝から雨で、来週はもうかなり散っているはずなので、昨日の内に撮っておいて良かったと思いました。

国語の宿題は勘弁して下さい・・・。

http://r2e.hp.infoseek.co.jp

[2161] 桜幻想 さっしい 2004/04/04(日)14:17 [メール]
▼RREさん▼
阪急電車といえば、桜との色の対比が見事でしょうね。
かたくなに「大人の塗装」を守り続ける会社の姿勢には、
何か、感動すら覚えます。

花見や飲酒や宴会も、決して嫌いではないのですが、
しかしあの、場所取りやカラオケや馬鹿騒ぎは、好きになれません。
できれば、誰もいない山の中の、一本の桜の木の下で、
一人ごろっと横になり、腕枕でもしながら空を見上げていたいです。
青空をバックに、はらはらと散り来るピンク色の花びら…

やはり桜には、人の心を狂わす魔力があるのだと思ってしまいます。

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[2162] もろともにあはれとおもへやまざくら TADA 2004/04/06(火)0:13
3首目の上の句を。作者は・・・わかりません。

百人一首は子供の頃に必死で覚えたのでなんとか句だけは出てきましたが、作者までは覚えられなかったのか単に思い出せないのか・・・です。

1首目はわかりましたが2首目は知りませんでした。
薩摩守忠則のお歌でしょうか?


http://www.photoland-aris.com/kisya/

[2163] 薀蓄再び さっしい 2004/04/07(水)22:04 [メール]
▼TADAさん▼
いえいえ、ほぼ正解でしたよ〜。
それよりも、反応して下さってありがとうございました。

  行き暮れて 木の下かげを 宿とせば 花や今宵の あるじならまし

この歌は、おっしゃるとおり「平家物語」によれば、
薩摩守・平忠度の作とされています。(確証はないようですが)
鉄ちゃん向けに、ヒントは「キセル乗車」としておきましたけれど、
現場で「サツマノカミ」といえば「タダノリ」のことなのだとか。

  もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし

こちらは、前大僧正行尊(さきのだいそうじょう・ぎょうそん)ですが、
百人一首を覚えたとは、さすがですね。(僕などは、やっと最近です)
この歌の心は、芭蕉も「おくのほそ道」の中で引用しています。

ただ、こういう薀蓄は、鼻に付いて嫌な人もいるでしょうから、
今回は短めにしておきますね。語りたがりの血は騒ぐのですけれど。

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[2164] 高尚な話題が沸騰している所ですが… 志村TC 2004/04/08(木)18:27
さっしい様、皆様、こんにちは。

いきなり話題を変えてしまいますがお許しください。
昨夜(正確には本日8日)、午前1時30分TV東京にて、いよいよ始まりました。
「鉄人28号」の本格派アニメの復活です。

過去、人気アニメは幾たびもリメイクされていますが、原作(第1作目)のイメージを大幅に変えてしまう為、古いファンは一様に落胆してしまうのが常でしたが(多分)、今回の「鉄人28号」はその辺の反省を踏まえているのか、昭和31年に発表された時の原作そのまんまをアニメ化したファンならずとも歓迎できる作品の様です。

私達が昭和38〜39年に見たグリコ提供の鉄人よりさらに、本編に忠実にできていましたよ。ウレシイのは舞台がちゃんと昔の東京なんです。首都高速がかぶっていない日本橋も登場しました。エンディングでは開いている勝鬨橋を波を蹴散らし鉄人が飛ぶ、夢の様なシーンも…。
なぜ、こんな深夜放送なんだ!今の子供達にも見せた〜い!と心から叫んでしまった私でした。ウルトラQのリメイクはがっかりでしたがこの鉄人はおすすめです。

で、最後に鉄ネタですが、この作品、街のあらゆる風景にちゃんと都電の架線が描かれていますという締めでよろしいでしょうか。



[2165] 「グリコ、グリコ…」で始まりましたか? さっしい 2004/04/08(木)21:58 [メール]
▼志村TCさん▼
へぇ、鉄人のリメイクですか。
旧作のモノクロアニメは、先頃ローカル局で放映されていましたが、
初期アニメのせいか、粗い作りで、カッコ良さがありませんでした。
本来、アトムよりメカニックなイメージの鉄人ですから、
今、凝って作ったら、なかなか迫力のあるものとなるでしょうね。
リモコンで意のままに操れるという設定も、かえってリアルでした。
そういえば何年か前にも、現代風にリメイクされていましたよね。

古典文学ネタは、単に自分の趣味ということでして…失礼しました。

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[2166] ♪良いも悪いもリモコン次第 TADA 2004/04/09(金)1:00
私も夕べ偶然見てしまいました、鉄人28号。
もう画面みて興奮状態、分かって作ってくれてますね、まさしく正しい「少年テレビマンガ」(決してアニメではない!)です。
009はトホホで見てましたし、アトムはこれは人気でないだろうな、と思ったらそのとおりになってしまい、リメイクってのは難しいな、と感じていたのですがノーマークの鉄人がやってくれました。
グリコはスポンサーになっていますが、さすがにかつてのように1社提供ではないので「グリコ・グリコ・グ リ コ〜」は入りませんが、オープニングもエンディングもかつての曲に燻し銀の男性コーラスです。

すみません、自分の板でも書き込んだらさっしいさんのところでも話題になっていたのでついつ熱くなってしまいました。

百人一首に限らず、子供のころってよく「覚えもの」しませんでしたか?
東京・新橋・品川・川崎・・・とか世界各国の国旗とか。
百人一首もその範疇で意味も分からず覚えたものでした。
ですから
高砂の尾上の桜咲きにけり 外山の霞たたずもあらなむ
の とやま を富山だと思っていて、霞は富山名物の蜃気楼のことだと思い込んでいました。
かるたトリでは姉にかないませんでしたけど・・・
花より他に は坊さんでしたね、そういえば源平よりも坊主めくりのほうがよく遊んでました。
 

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[2167] 鉄人vsアトム and 暗記モノ さっしい 2004/04/09(金)23:12 [メール]
▼TADAさん▼
鉄人の行動が、操縦者の思惑次第というのは、
ロボットは機械であるという現実を、否応なしに認識させられますね。
そしてそこに、未来的ではない現実味があったのでしょう。
舞台は、先の大戦の記憶を引きずっているわけですしね。
とはいえ、原作をきちんと読んでいないもので、あまり語れませんが。

自分の少年時代は、人間に近いアトムの方が好きだったのですが、
今思えば、七つの力のうち「良い人と悪い人を見分ける」というのは、
どうしても独善的になり、非常に危険な回路なのではないでしょうか。
やはりプログラミングした人間の価値観に左右されるのでしょうし、
イラクに派遣されたりした場合、米軍や我が自衛隊などはどう映るのか…
サンケイ新聞版の後日談では、ベトナムで米軍と戦ってたっけなぁ。

ともあれ、当時、アトムは陽、鉄人は陰、というようなイメージがありました。
ドラクエとファイナルファンタジーとの違いにも似ているようであり…違うかな?
「空を超えてラララ…」の「みんなの友達」アトムに対して、
鉄人の方はといえば「夜のハイウェーにガォ〜!」ですからねぇ。
あの巨体と無表情が(渋いのですが)、ちょっと怖かったかも。


覚えモノといえば、小学生時代の鉄道唱歌(東海道篇)でしたかねぇ。
友達と競い合って(一部意味不明ながら)66番まで覚えたものでした。
駅名の方は、日本縦断(稚内→鹿児島)に挑戦することを宣言し、
稚内、南稚内、抜海、勇知、兜沼、徳満、豊富、下沼、幌延…と来たものの、
なんと旭川で早くも挫折しました。今と同じで根性なかったんでしょうね。

でも確かに昔は、学校でもいろいろ暗記させられましたよね。
都道府県と県庁所在地は完璧ですが、国名と首都は今ちょっと怪しいです。
九九も、年号も、和歌や漢詩も、元素記号も、丸暗記って大切だと思います。
そういう教育は、決して間違っていなかったと思うのですが…

坊主めくりでは、最後に「はげ」が出ると、泣いたりしたっけなぁ。

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[2169] こどもの国線 ER34 2004/04/12(月)0:01
こんばんは^^
トップページのこどもの国線の電車なつかしいですね〜^^
私は、現在こどもの国線沿線近くに在住なのですが、東急こどもの国線が委託による
運行ということは知りませんでした。これで、最近”横浜高速”線に名前が変わった理由が
少し分かったような気がします(笑)
私が、深川からこちらに引っ越してきた頃は既に新型車両による運転でしたが、
昔、電車を追っかけてた頃は確か派手な、こどもの国線仕様の”3450型”(でしたっけ?)で、運転されていましたよね^^東急と言えば、3450型とか5000型(これも記憶が・・?)”アマガエル”といった緑色の電車が好きで、たまに目蒲線とか池上線に乗る機会があると、楽しかった記憶があります。
自宅の近くには長津田の車庫がありますが、確か保存されていたような気がします。
ただ、近くを通って、電車が並んでいるのを見ても昔の”小名木川”での時のような、あのワクワク感はもうありません。。
もっとも、当時もステンレス車が並ぶ越中島の営団車庫にはときめきを憶えずに、隣のヤードにばかり目が行っていましたが・・・(笑)

2168は変換ミスがあったので削除しました(すんません)

http://er3425gt.hp.infoseek.co.jp/

[2171] こどもの国線は さっしい 2004/04/12(月)19:06 [メール]
▼ER34さん▼
正式には委託という言葉で良いのかは分かりませんが、
開業当初から、路線の所有者は「こどもの国協会」で、
運行管理は東急が受け持ち「東急こどもの国線」と称していますね。
最初は、派手派手塗装のデハ3405+クハ3866で運転されていました。
その後、3450系に替わり…そして今週の7200になったのでしたか。

横浜高速鉄道の路線になっても、運行管理は東急がしているようですが、
今は、車輛も横浜高速鉄道のもの(Y001系)で運転されていますよね。
車輛を保有していても、いまだに「第3種鉄道事業者」なのでしょうか。
自社で運転管理をしていないから、ということなのでしょうか。

Y001系の前は7000形の2両編成で運転されていましたが、その車輛は今、
横浜・金沢の「東急車輌」の入替機となっていて、昨日も見ました。
今も「こどもの国」時代の塗装で、星型(?)マークもそのままです。

瀬谷に住んでいた頃、自転車で長津田まで行ったことがありましたが、
まだ何編成か残っていた青ガエルに混じって、なんと赤ガエルを目撃。
今思えば、岳南(ぽこぺん写真帳No.1)に行く直前の姿でした。

http://homepage1.nifty.com/sassy/

[2172] 「昭和情景博物館」にはまってます 都電20番 2004/04/15(木)23:26
 お久しぶりです。
これで完全に復活、というわけではないですが、徐々にまた前のように活動していこうかな、と考えています。
 さて、コンビニでも例の「昭和情景博物館」の食玩、売り出されました。今日も一つ買いました。箱を持ってみると重さで電車か、建物かはわかります。今日は40系統の6000形(6288号)でした。ただ、正確に言えば窓が9枚でD17台車のはずです。これは21系統の6139号と同じ10枚窓にD10(のつもりなのでしょうね)なのです。まあ細かい事を言い始めたらきりがありませんけど。それと建物もよく出来てます。私はダブった郵便局と電器屋の建物を作ってみました。電器屋の建物はキンチョールのホーロー看板とかも再現されていてなかなかいい雰囲気を出しています。これの”シークレット”は酒屋の建物です。私はまだ組み立ててはいませんがこれもけっこうリアルな出来でしょう。建物に関してはこの「情景」以外のところからも出ているのでそれらと組み合わせてみてもけっこう面白いものが出来そうです。これで315円は絶対にお買い得です。聞く所によると続編も出るようでこれは金太郎塗の6000が出るということです。それと阪神の国道線の電車が出ます。ここの製作会社のHPに写真が出ています。けっこう凝った作りです。
 しかし、こういう街並みはもう「模型」の世界でないと見ることができなくなっているというのは残念なことです。今の若い層の方々はああいう建物を見て「ダサい」とか思うのでしょうね。でも、今のガラス張りの建物にはない温かみがあります。この「温かみ」というのがけっこう町の中で大事なものだったのでは、と思うのは私だけでしょうかね。
 ちょっと長くなりました。またよろしくお願いします。


[2173] お久しぶりです さっしい 2004/04/16(金)20:17 [メール]
▼都電20番さん▼
ご無沙汰していました。お変わり無さそうですね。
都電の食玩については、あちこちで話題になさっていますが、
自分はそれほど興味はありませんけれど、なかなかの出来だそうで。
阪神国道線の金魚鉢も好きでしたが、やはり贔屓は都電と玉電でしょうか。
むしろ最近は、街並みとか情景といった方に心を惹かれるようです。
また、明治・大正期の東京の街が、最大の興味の対象になりつつあります。

 》でも、今のガラス張りの建物にはない温かみがあります。
 》この「温かみ」というのがけっこう町の中で大事なものだったのでは、
 》と思うのは私だけでしょうかね。(改行位置変更しました)

「私だけ」ではないと思いますよ。特に都電サイトに出入りする人達は、
皆、同じようなことを思っているのではないでしょうか。
今の東京の街は無惨というのか、無機質になってしまいましたね。

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[2174] また、昭和の巨星が… 志村TC 2004/04/17(土)1:04
さっしい様 こんばんは。

都電20番様が復活されて喜ばしいことですね。私が都電系の掲示板に参加
し始めた頃、奇しくも都電20番様が休止状態に入り、氏の発言は全て過去
ログで知り得たものばかりでした。これから都電20番様のいろいろな報告
を知りえると思うと、とても楽しみです。
都電20番様、今後よろしくお願いします。例の食玩、私も5個購入しました。
内容は重さで判断できますが、私は都電3両と江ノ電2両をGETしました。
懐かしき古い建物、看板建築の商店、どれもこれからの時代、大切にして
いきたい貴重な日本の財産だと思っています。

さて、本日は人質解放で歓喜のうらで大変、悲しいニュースが報道されましたね。
横山光輝氏、逝去のお知らせ!なんてことだ。
火事で重体との報道は昨日、知ったばかりだというのに。まさかの気持ちでいっ
ぱいです。
手塚先生、石森氏、藤子F先生、そして横山光輝氏…。我々の世代が少年時代に
お世話になった巨匠が次々と鬼籍に入られる。今年は例年になく本当に悲しい
ニュースが続く気がします。
深夜の鉄人28号が始まったばかりだというのに、また実写版も制作に入ると聞い
ていますし、これから再認識される評価を聞く事もなく天国に召されてしまった
わけですね。本当に時代の流れの早さを痛感した今日でした。


[2175] 科学にも忍法にも夢中になった頃 さっしい 2004/04/17(土)8:44 [メール]
▼志村TCさん▼
おはようございます。今日は暑くなるそうですね。
半袖にでもなって、緑の中を歩きたいものですが、
ここ2〜3日、風邪の症状が出ているので、
さてどうしたものかと思案中です。
汗をかいた方が早く治るのかもしれませんが。

横山光輝氏は、お気の毒でしたね。
自分にとっては、手塚氏以上の存在だったかもしれません。
それにしても、69歳という若さは意外な感じがしました。
若い頃から活躍されていたということなのですね。

ただ、代表作としてニュースでは「鉄人28号」「サリーちゃん」
それに「三国志」あたりが紹介されていたようですが、
自分としては「伊賀の影丸」を挙げてくれないのが残念でした。
子供の頃、少年サンデーの発売日を待ち望む理由の一つでしたし、
後にコミックも全巻購入したような、思い入れのある作品でした。
(他に単行本で揃えているのは「巨人の星」と「ドカベン」ぐらい)

ともあれ、本当に今年は、
自分の少年時代に影響を与えてくれた方々の訃報が続きますね。

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[2176] 「昭和情景」続編を期待したいです。 都電20番 2004/04/17(土)11:55
 志村TCさん、はじめまして。
ちょうど私が書くのを一部自粛と入れ替えという感じでしたね。前みたいな活動は徐々にということになりますか、これからもよろしくお願いします。

 さて、「昭和情景博物館」書いたように続編が出る(7月ごろという話ですね)ようですが、車輌のほか、建物もどういったものが出るか期待したいところです。私は、他に銭湯(大きいでしょうかね)、魚屋か八百屋、居酒屋、乾物屋(食料品店)、写真館、書店、食堂(中華か、蕎麦屋か、すし屋)など出してくれたらと思ってます。ここまで出れば、街並みがほぼ完成しますね。東京の街中を歩くと、まだ昔ながらのこういった商店に出会うことがあります。何か、すごく嬉しくなってしまうのはなぜでしょうかね。315円(税込み)でここまで再現されているというのはやはり、すごいし、お買い得です。
 車輌は6000金太郎塗でもいいのですが、5000とか、5500とか、8000とかの他の車輌をいずれだしてくれたらと思っています。個人的には1500とか、2500といった変り種の車輌もいいかなとか思っているのですが、これらに関してはム○シ○のHOでも出ていませんからね。ちょっと無理な注文ですね、やはり。
 あと、停留所も出してほしいです。昔のスタイルの安全地帯で。
今回の「昭和情景博物館」は、フィギュア製作会社の方が実相寺昭雄氏の「昭和電車少年」(JTB刊)を見て思いついた企画のようです。実は私もこの「昭和・・・」の発売が発表になるかなり前から、都電通りの風景をフィギュアにするというところが出てきたらと思っていました。あるところには働きかけもしていました。まさか、このような形で発売されるとは思わなかったです。この都電フィギュア、「昭和情景博物館」以外でも他のフィギュア製作会社で、別の企画形態で発売してはくれないかなと実は思ってます。今回の「昭和・・・」は都電以外にも江ノ電、阪神国道線がありますが、私が思っているのは都電オンリーで、関東地区の限定発売という形を取る、そんなのでは売れないですかね。箱(中の説明書)には昭和30〜40年代の都電の系統とかの説明を入れる、いや、完全な妄想になっていますね。
 でも、誰か考えてくれたらと真剣に思っています。フィギュア製作会社の方とかここの掲示板見てないでしょうか。見てたら、お願いしたいです。


[2177] こんなモノを見つけたのですが・・・ しもやま 2004/04/18(日)8:30 [メール]
はじめまして、しもやまと申します。
都電のことなら、貴サイトでと、TADAさんのところから参りました。
のっけからのお尋ねで、大変恐縮なのですが、先日、不思議なものを見つけましたので、お教えいただければと思います。

赤坂見附駅から虎ノ門まで外堀通をあるいていると、都電の電停名のような看板にであいました。見かけは電停看板そのものなのですが、名称が「赤坂三丁目」「霞ヶ関三丁目」「虎ノ門一丁目」でした。
かつての路線図を調べると、「赤坂見附」「山王下」「溜池」「虎ノ門」が相当すると思われます。
この看板には、「バス停ではありません」の表記があったりして、一体何のためにあるのかと、疑問にも思いました。
弊ページにて、「都電の遺産???」とのタイトルでとりあえずアップいたしました。
さっしい様、また、こちらにお越しの方々からご教示いただけると幸いです。

いきなりのお尋ねで、大変失礼とは思いますが、お許しください。


http://www002.upp.so-net.ne.jp/senrobata/

[2178] 何やら懐かしい雰囲気ですね さっしい 2004/04/18(日)10:18 [メール]
▼しもやまさん▼
はじめまして。(お名前やHPは以前より拝見していますが)
このたびはまた面白いものをご紹介して頂き、ありがとうございます。

件の標識(?)ですが、都電関係のものでないということは確実です。
「虎ノ門一丁目」という住居表示自体、昭和52年以降のものです。
設置者は、道路管理者か警察あたりなのでしょうか。
「虎ノ門一丁目」の地図には、旧住所も記載されているようですので、
住居表示実施後、間もないうちに設置されたものだと思われます。
どなたかご存じの方がいらっしゃいましたら、解説お願いします。

「四ツ谷」と「新橋」は、外堀通りが曲がる位置ですね。
道なりに行けばそこに至るという、大体の目安表示なのでしょうかね。
今回は外堀通りだけのようですが、他でも見られるものでしょうか。
今度東京に行ったときに、ちょっと気をつけて探してみようかな。

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[2179] 私も見たことが… 志村TC 2004/04/18(日)10:35
さっしい様こんにちは。 しもやま様はじめまして。

私も同じ標識を白山通り(千代田区内)で発見しました。
表示は「西神田一丁目」。
やはり最初は一瞬、都電遺跡かと思いましたが、ここは三崎町だったはず。
裏面などはしもやま様のUP写真と同じ様な表記だったと思います。
またその前後には同様なものはなく「西神田一丁目」だけ唐突に
存在している様です。また表示方向も歩道側ではなく、自動車側から見える
様に設置されています。私も以前から疑問に思っていました。
これは何のためにあるのでしょう。



[2180] 最後の年の都電を掲載しました さっしい 2004/04/18(日)19:23 [メール]
都電アルバムも回を重ね、
いよいよ廃止日以前の最後のページとなりました。
最後の1年間は、都電に対して本当に冷淡になってしまい、
今、悔やんでも悔やみきれないものがあります。
その時はその時で、私鉄の研究に熱中していたわけなのですが。
さて、残るは最終日と、13番関連のみ。でも、いつになるやら。

▼志村TCさん▼
そうですか、三崎町にも。
となると、あちこちにありそうな雰囲気ですね。
本当に都電の電停表示のようで、とても懐かしいムードですが、
ご報告によれば、ますます道路用・自動車用みたいな感じですね。

ところで「三崎町」電停は最後まで「三崎町」だったのでしょうか。
都電の廃止時期と住居表示実施の時期が、かなり重なっているので、
廃止間際にバタバタと変更された地域などもあったかと思われます。
そのあたり資料不足で、歯がゆい思いをしているところです。

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[2181] ありがとうございます。 しもやま 2004/04/18(日)20:41 [メール]
さっしい様
志村TC様
早速のレスを頂戴いたしましてありがとうございます。
どうやら都電とは関係ないもののようですね。でも、なぜ、あのような「電停名」スタイルなのでしょうかね。
ドライバーに見やすいように、都電で見慣れた看板のスタイルを採用したということでしょうか。
志村TCさんの仰る神田方面も今度探索に行ってみようかと思います。
どうもありがとうございました。

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[2182] どうして21系統と40系統なのか 都電20番 2004/04/18(日)21:33
 昭和47年(1972年)の都電風景、さっそく拝見しました。
車庫も三箇所(錦糸堀、柳島、荒川)になり、荒川は離れ小島といった感じの状態といった中で、荒川線以外の線の最後の年を迎えるわけですね。でもまだ、東京の街中で存在感がありました。
 さて、また「昭和情景博物館」の話題になります。今回発売されてる6000形、番号は6139と6288、そして系統は21系統と40系統。でもふと思ったのです、どうしてこの系統なのかと。
一ケタ台の系統でもいいだろうに、1系統とか、6系統でもいいのになと思いましたが、この数字の系統なのです。想像するに、林順信氏の写真集とか製作スタッフの方が見ていたのではと思います。21系統については、「東京都電慕情」(JTB刊)に根岸界隈の写真が出ています。これ、まさに「昭和情景博物館」の風景を絵にしたといいものです。当時の建築物はまだ若干残っているみたいです。そして40系統、根津、千駄木界隈、特に千駄木は震災、戦災に残った昔ながらの街並みが残っていたところです。今はその面影はまったくありませんが。そのあたりの風景が製作スタッフの方の頭の中にあったのではと思うのですがどうでしょう。
 それにしても、都電フィギュア、他でも出してほしいと真剣に思ってます。車輌の他に電停(安全地帯)、信号塔、架線柱(電停表示つき)、職員詰所とか、フィギュアで出せないものでしょうか。車輌は6000形(3000、4000を含む)はもう「情景」で出ているので外して、1000、1200、1500、2000、5000、5500、6500、7000、7500、8000のどれかからこれだというものを選び、出してもらえたらと考えてますが、やっぱり妄想ですね。というか、マニアックすぎますね。でも、考えてくれるところがあったらとは思ってはいるのです。

 それと話題になっている都電の電停板によく似た町名表示板、これ電停板と同じ会社によって製作されたものではないかと思うのです。下にある広告も都電にあったそれとよく似てますからね。


[2183] 森永の土星 TADA 2004/04/19(月)0:21
銀座と名古屋駅前の大名古屋ビルヂングは知ってましたが神田にもあったんですね。

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[2184] 東京の街は謎だらけ? さっしい 2004/04/19(月)22:37 [メール]
▼しもやまさん▼
「都電関連ではない」という結論だけは出せたようですが、
あまり本質的なお役には立てませんでしたね。
何か判明しましたら、また教えてください。
他の方も「ここにもあった」という話題でも構いませんので。

▼都電20番さん▼
キャプションにも書いた通り、この年はもう、
自分の心は都電から離れてしまっていたようですね。
走っている地域も限られていましたし。
荒川系は残るということもあり、全く訪れませんでした。

▼TADAさん▼
実は自分で良く分かっていないのですが、
あの球体は、日通本社・三菱銀行ビルの屋上にあったようですね。
森永という雰囲気でもないみたいなのですが…
どなたか真相をご存知ではないでしょうか。
今は、ビル自体も変わってしまったようですけれど。

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[2185] 駅ホームからの都電風景 都電20番 2004/04/20(火)9:14
 それと、錦糸町駅前の都電の写真を見て思ったことですが、駅ホームからの都電の写真って、そんなに見かけません。錦糸町駅前はこのさっしいさんの角度からの写真を撮ることができたのは、昭和47年(1972年)のほんの一時のはずです。錦糸堀交差点の歩道橋からの写真というのはけっこうあるのですがね。
 ここ錦糸町のように、駅のホームから都電の姿を捉えることができた駅は他に、五反田、飯田橋があります。しかしこれらも駅ホームから都電の姿を捉えた写真というのはあまり見ません。
あと、東横線の渋谷駅も、今はない文化会館前に止まる都電の姿を撮影できたと思います。他、私鉄だとどこの駅のホームで都電の姿を捉えることができたでしょうか。


[2186] 国電でも さっしい 2004/04/21(水)23:05 [メール]
▼都電20番さん▼
当サイト「都電アルバム」駒込車庫の写真もホームからですし、
市ヶ谷のホームからのものは、おすしさんの写真にもありますよね。
「捉えることができた」という意味合いが、もう一つはっきりしませんが、
見下ろせるという意味では、御徒町や王子や大塚でも可能だったでしょう?
実は自分にも亀戸での失敗作があるのですが、あれは車内からだったかも。

ところで、この手のことを言うと不快に思う方もあるかもしれませんが、
今回の、いきなり「それと」という書き出しは、ちょっと気になりました。
[2182]のご自身の投稿への付け足しという意味なのでしょうけれど、
[2184]のレスが全く無視されているようにも感じてしまいますし、
何か、ご自分の発言だけがこの場に存在しているかのような印象も受けます。
以前から言われてきたことかもしれませんが、ご一考頂ければと思いました。

「掲示板」という名称から、(「談話室」あたりの方が良いのかな?)
単なる情報発信の場と捉えられているのかもしれませんけれど、
自分としては、むしろ「対話」「会話」の場であることを願っています。

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[2187] 国電のホームから TADA 2004/04/22(木)1:23
都電の見えたところ、というと山手線で考えてみると
東京 丸の内は赤レンガがさえぎってムリ?
神田 すぐ下を斜めに1系統などが走っていたから見下ろせた
秋葉原 山手線からだと建物のカゲになりますが総武線ホームからは中央通りをゆく姿が見えました
御徒町 16が下くぐってましたね
上野  ホームからではちょっとムリかな?
駒込  ここは見えませんね
巣鴨  ここも都電が上ですからねぇ・・・
大塚  いまでも見えます
池袋  西武が間に入っているから無理
高田馬場 ここは山手線ホームからでは微妙?
新宿  ホームからは見えなくても青梅街道のガード上から見えました
渋谷  東横線があるので国電からは無理
恵比須 ここはどうだったんでしょ?
目黒  駅が掘割の中だから見えませんね
五反田 20番氏の書き込みにあるように見えた
品川  無理
浜松町 ビルの間から見えたのでは?
新橋  見えたはず(自信なし)
有楽町 見えた

こうやって改めて山手線の各駅を見てみると、都電ってほんとうに都内を網の目のように走っていたんですねぇ。


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[2188] 次回の「昭和情景博物館」 都電20番 2004/04/22(木)11:07
 すいません合いも変わらず書く際の表現方法にまずいところがありますね、申し訳ないです。

 食玩「昭和情景博物館」の続編が7月に出るようです。建物は最初のものの色違いバージョンのようです。問題は電車車輌ですが、一つはここにも書いた阪神国道線の車輌(金魚鉢と言われたタイプです。)と、そして都電です。都電ですが金太郎塗りの6000だということです。どういうやつなのかと思って期待していたのですが6152なのです。まあ予想されていたことではありますが、画像(あるところで見たのですが)を見ると交通局のTマーク(例のいちょうマークです。)が入っているのです。これ、昭和30年代というものをイメージしているんですよね、ですから車輌にTマークを入れるというのはちょっとおかしいのではと思うのですがどうでしょう。とはいえ6000形でぱっと思い出すものといったらやはり6152(一球さん)ということになるんでしょうから。
 コンビニで発売中ですが、売れているのは以外にも建物の方なんですね。あるのは電車ばかりという状況です。箱を持ってみると軽いのですぐわかります。それがどこのコンビニでもそうなのです。


[2189] 再び「国電ホームと都電」 さっしい 2004/04/22(木)20:29 [メール]
▼TADAさん▼
詳細な考察、ありがとうございました。
神田はそうかなと思ったものの、自信がありませんでした。
秋葉原は、ホームの西端から見えたんでしたっけ?
上野の1番線から京成側は、角度として苦しかったのかな。
駒込は、車庫なら見上げることができましたけれどね。
恵比寿や新橋はどうだったのでしょうね。記憶にありません。
有楽町は、日比谷方向が見通せたのでしょうか。

こうしてみると、意外とあるものですね。
そういう角度からも写真を撮っておけば良かったと思いました。
でも、望遠レンズが無いと苦しい場所が多かったかな。


▼都電20番さん▼
何かまた難癖をつけるみたいで、自分としても嫌なのですが、
[2185]の話題提供の意図は、どういう所にあったのでしょうか。
というのは、僕とTADAさんが、その話題にレスをしているのですけれど、
それに対して(今のところは)何も反応が無いようなので…
確かに、ご希望の「私鉄のホーム」を取り上げてはいませんが、
何も返ってこないというのは、やはり寂しいような、もどかしい感じです。
決して強要するわけではないものの、ご自分で投げ掛けた話題でしょうから、
行って帰ってきて迎えるぐらいまでは、面倒を見てやってくださいな。

ついでながら、五反田や御徒町や飯田橋のホームからの写真は、
多いとは言えないながらも、林さんや吉川さんの本に載っていますね。
食玩に関しては、知識が無いもので、失礼させて頂いています。

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[2190] 都電の見えた駅他には 都電20番 2004/04/23(金)10:08
 2185での話題の続きになりますが、山手線の各駅はTADAさんが解説してくれましたが、その他の国電(現JR)の駅だと、取り上げた飯田橋の他に御茶ノ水、王子などありますね。御茶ノ水は今出ている「RM MODELS」にNゲージでのレイアウトが掲載されてます。うまくつくってあります。当時の都電の写真(13系統)も出ています。
 私鉄だと、思いつくのが浅草です。東武線のホームから22系統の電車が走るのを見ることができたのではないでしょうか。東武だと業平橋の駅からも24系統の姿を見ることができたでしょうか。京成だと今でも見えるであろう町屋、それと千住大橋の駅から21系統の電車を見ることってできましたっけ、このあたりはちょっとはっきりとはわかりませんが。他の私鉄沿線の駅で都電の姿を見ることができた駅っていうのは京浜急行の品川、ここからは第一京浜上の都電の姿をみることができたはずです。東急だと渋谷からは見ることができたでしょうけど、他都電ではなくトロリーバスだと中目黒で見ることができたような気がしますがどうだったでしょう。
 思いつくのはそれくらいですか、それだけ都電のネット網って手広くあったということなんですね。


[2191] ・・・・ 回送車 2004/04/23(金)19:47
馬の耳に念仏、柳に風、困ったもんですねぇ〜。

[2193] 今は荒川線以外、どこでも見えませんけれど さっしい 2004/04/23(金)23:42 [メール]
▼都電20番さん▼
そうですよ、そう来なくちゃ。ご自分で質問を投げ掛けたのですからね。
(でも、王子については僕も言ってるんですけど…)

東武浅草からは見えましたっけ? あの狭いホームの北端からですか?
そこでは東武の写真を撮っているのですが、道路にまで届いていたかな?
う〜ん、記憶がイマイチです。たった(?)35年前のことなのに。
ホームの長さが同じなら、今見えれば当時も見えたということですよね。
その後、延伸したような気もしますが、ちょっと自信がありません。

京成関連は、実証していないので、何とも言えません。
京急の品川は、どなたかの本に、見事な写真がありましたっけ。
地下鉄丸ノ内線の四ツ谷からも、喰違見附方面が遠望できましたっけね。

▼回送車さん▼
はじめまして、でしょうか?
言いたいことはわかりますし、気持を酌んで下さっているようですが、
自分としては、この手の書き込みは、あまり喜べないものです。
もちろん、我が意がなかなか通じないことは、もどかしくもあるのですが、
それはそれとして、きちんと意見を述べて下さった方が良いと思いました。

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[2194] 行く末が心配です。 志村TC 2004/04/25(日)0:55
さっしい様、こんばんは。
メインタイトルの飛鳥山併用軌道の7000形写真、とても美しいですね。
昭和57年ですか、私もまだまだ青春時代を謳歌していた頃です。
一番、戻りたい時代っていうか、もう一度やり直したい時代と表現すべきか…。
さっしい様の、この時代の都電撮影って珍しい部類では?

さて、本日1年振りに大山の板橋交通公園に行ってきました。ワンマン7508号
はどうなっているかな、ちょっと見てきました。
すると1年前まであった上屋根がなぜか撤去されているではありませんか!
全く野ざらし状態です。おかげで屋根部分の汚れ、錆が異常に目立ち、このまま
では腐食してしまいそうです。
昭和61年から現在まで予想以上に程度良好を保っていた車体だけに屋根なしでは
今後が心配です。車内は機器類こそ多少の破損はあるものの、シート表皮などとても
綺麗で(途中、張替えがあったのかも)、まだまだ見るに耐える状態ですが…。
外装は防錆処理と再塗装をしないとじきに車体そのものが撤去になってしまうかも。

川崎市の桜川公園の川崎市電も以前、見に行った時はコンテナ状の倉庫に密閉され
ていたので30年以上の経過を感じさせない程、状態は抜群でしたが、最近の屋外展示
であっという間に錆が出てしまったそうですし…。
そうかと思えば日産自動車は昭和7年から現在まで230台以上の新車を網羅した展示
館(近い内に一般公開予定とか)を保有しているというし…。
過去の都電を新車状態で見てみたいですなあ…と切なく思う今日でした。


[2195] 重ねて済みません! 志村TC 2004/04/25(日)2:05
「2194」内で書くべきだったのですが…。
船の科学館に展示してあった旧海軍の二式大艇が鹿児島の航空自衛隊
鹿屋航空基地に移転したNEWSはショックでした。
あの二式大艇は保存状態抜群でちょっと整備すれば今でも十分、飛行
可能と思っても不思議でない程、完品でしたから。
もう、手近に見ることが出来ないとなるとガックリです。しかしあの
保存状態、各公園で瀕死状態にあえぐ都電管理者に見習って欲しいと
いつも思っていました。
でも、なぜ手放したんでしょうね、モノがデカイだけに維持費は莫大
でしょうが…。競艇あんまり儲かってないのでしょうかね。
連続の乱文、失礼しました。


[2197] 歴史遺産として さっしい 2004/04/25(日)6:47 [メール]
▼志村TCさん▼
話題を内容ごとに分割して投稿してくださるのは、別に構いませんよ。
もしかしたら最近、小言幸兵衛ふうに見えてしまうのかもしれませんが、
投稿内容や記述法に関してお願いをしているのは、別の意味ですので。

さて、表紙画像はご指摘の通り、自分としては珍しい「荒川線」です。
しかも、既に横浜で暮らしていた頃ですので、わざわざ行ったのですね。
この時期は、詳細な行動記録を残していないのですが、
日の丸を付けているので、2月11日「建国記念の日」だったのでしょう。
もうあれは「都電」ではないと思っており、冷淡になっていた頃でしたが、
線路際でカメラを構えると、やはり胸が高鳴ったのを覚えています。
この日は、王子−飛鳥山で数枚の写真を撮っただけでしたが。
(同じ場所で8ミリも撮ったのですが、それは別の日だったか…)

それにしても、板橋の7508は安心できない状態ですか。
なぜ、せっかくの屋根を撤去してしまったのでしょうね。
川崎も、直接見られるようになって良かったと思っていたのですが、
逆にそういった弊害があるわけですね。なかなか大変なものです。
やはり横浜の市電保存館のような方式が理想でしょうか。
あちこちで何度も言われていますが、都電保存館が欲しかったですね。
そこの学芸員にでもなれたなら、幸せな人生だったかもしれません。

鉄道以外の乗り物や軍事には詳しくないのですが、
二式大艇というのは、水上発着可能な、ボテッとした大型機でしたっけ。
その手のものが好きな友人に連れられて、見に行ったことがありました。
「二式」というのは零戦の「零式」のように、紀元2602年という意味ですか?
船舶振興会も、笹川良一氏亡き後は、財政的に苦しいのでしょうかね。
「地球は一つ・人類皆兄弟」でありながら「戸締り用心・火の用心」という、
矛盾したブラックユーモア的なCMも、見られなくなって久しいですし。

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[2198] 記憶をたぐって TADA 2004/04/26(月)0:15
前にも書いたかもしれませんが、昔のことを記憶だけで書きあとであわてて修正、ということを何度もやらかしております。
山手線から見た都電、思い出してみるとほんとにそうだったかな、と内心不安です。

子供のころ電車で出かけるとき、なにより楽しみは流れ行く車窓にいろいろな電車を見ることでした。
田町電車区の横を走るときなどその最たるものでしたが、山手線に乗って時折見られる都電を見るのも大きな楽しみでした。
2187はホームではなくその駅付近の車窓からの記憶も混じっているようです。
さっしいさんが書かれた秋葉原は特にそう思います。
総武線の高いホームからそろそろと走り出した電車の真下に見下ろす中央通りの都電とごっちゃになっているのかも、です。
秋葉原から総武線に乗るときは、目的地が牛込の従兄弟のところや御茶ノ水の順天堂病院だったので、御茶ノ水よりの先頭車に乗るのが常でした。
そのときホームから都電を見ていた記憶があったような気がして、つい書き込んだのですがホームと道路に位置からみると微妙ですね。
神田は山手外回りのホームが中央通りの上にかかっていますのでこれははっきり覚えています。

都電20番さんの書かれた京成千住大橋は当時のホームの位置だと見えなかったと思います。
町屋もホーム延長により都電の線路の上までホームがかかっていますが、6連対応のころにはなんとか見えただけでした。

森永の土星についても調べてみたのですが、意外にもネットで全くヒットしません。
以前書泉で購入した「犬走り」という小雑誌に森永の土星研究レポートが載っていたのですがどこにしまったかこれまた見つかりません。

先日某駅前で火災予防運動のキャンペーンで消防署のブラスバンドが来ていました。
そこでいきなり「戸閉まり用心 火の用心」のメロディーが演奏されたのにはたまげました。
あのフレーズだけ聞くとたしかに防火、防犯のメッセージソングですね。


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[2199] 二式について。 志村TC 2004/04/26(月)13:08
さっしい様
仰せの通り「二式」は紀元2602年の末尾の2を冠したものですね。
ただ明治、大正期は違っていまして、

 三十年式機関銃…明治30年採用
 三八式歩兵銃……明治38年採用
 十四年式拳銃……大正14年採用

なんて感じで元号の年度そのまんまの様ですね。不思議なのは全て「年」が
付いているとは限らずゴロがいい「サンパチ」等は「年」を省いているのが
特徴の様で。
こうしてみると昭和に入ってから突如、紀元節を採用し尊皇思想・主義を更に
強烈に国民に植え付けていったんでしょうね。う〜む、恐ろしい。

話題に出ています国電ホームから見えた都電ですが、水道橋はいかがだったで
しょう。私は廃止後の昭和48年、水道橋(ただし三田線)を利用していたの
ですが、白山通りからホームの末端が見えていたと記憶してますので。気にな
りました。
ています。



[2200] 都電と他の列車 都電20番 2004/04/26(月)14:39
 都電の見えた駅、一通り述べましたか。ちょっとそこから発展して、都電と他社線のツーショトを撮ることの出来た場所、というのを見てみたいのですが。
 「東京都電の時代」(大正出版刊)には国鉄(JR)との立体交差区間のあった場所が記載されていますが、この中でツーショットを撮ることが出来た区間というと。
 恵比寿・・・山手線ガード(8系統) 渋谷駅前・・・山手線ガード(昭和32年3月25日まで 6、9、10系統) 東京港口・・・山手、京浜東北線他(芝浦工場引込み線) 新橋・・・山手、京浜東北線、新幹線他(1、4系統) 新橋・・・山手、京浜東北、新幹線他(6系統)、 都庁前・・・山手、京浜東北線他(5、28、31系統)、 有楽町・・・山手線、新幹線他(8、9、11系統)、
丸の内・・・山手、京浜東北線他(28、31系統)、新常盤橋・・・山手線他(17系統)、神田駅前・・・
山手、中央線他(1、19、40系統)、万世橋・・・総武線(1、20、24、30、40系統)、秋葉原駅前・・・山手、京浜東北線(13系統)、飯田橋・・・中央・総武線(15系統)、 水道橋・・・中央・総武線(2、17、18、35系統)、 秋葉原・・・総武線(37系統)、 須田町・・・山手線他(12、25、29系統)、御徒町・・・山手線他(16、39系統)、上野駅前・・・京浜東北線他(1、24、30系統)、浅草橋・・・総武線(22、31系統)、 両国駅前・・・総武線(12系統)、両国・・・総武線(23系統)、錦糸町〜亀戸・・・小名木川貨物線(29、38系統)、三ノ輪橋・・・常磐線(21、31系統)、大塚駅前・・・山手線(32系統)、 王子駅前・・・京浜東北線(19、32系統)
いや、けっこうあります。これらのところなら、都電と国鉄線(JR)とのツーショットを撮ることが出来たのではないでしょうか。


[2201] 東京・車窓の思い出 さっしい 2004/04/26(月)20:15 [メール]
▼TADAさん▼
そうなんですよね。自信があるようでいて、案外記憶が曖昧だったりしますね。
子供の頃、親に連れられて電車に乗って出かけるというのは、
デパートでの買い物か、親戚の家を訪ねる場合が多かったように思います。
飯田橋から西へ行く時は、四ツ谷までの間、外濠越しに3番や10・12番の都電、
東へ行く場合は、秋葉原まで13、亀戸までは25・29番などが見え隠れしていました。
立体交差する場合は一瞬ですが、いつも何台かの都電が見えたものですね。

高架区間の国電の対向式ホームは高い塀で覆われていて、外はあまり見えません。
その点、島式ホームの場合は、かなりオープンで遠くまで見渡せましたっけ。
市ヶ谷の釣り堀の向こうを行く700形なんていうのも、ほほえましい光景でした。

一番印象に残っているのは、僕の場合も、水道橋から御茶ノ水にかけてです。
国電は軽やかなのに、13番の小さな電車は一所懸命坂を上って行くんですよね。
喘ぎ喘ぎという感じで順天堂病院前を目指す辺り、神田川越しに良く見えました。
そして御茶ノ水のホームからは、聖橋をくぐって湯島聖堂の前の坂を駆け下りる姿。
今でもこの区間を通るときには必ず、元の都電通りの方を眺めているのですが、
何かまだ都電が走っているような錯覚にとらわれてしまいます。

東京から品川へ行く際には、できるだけ東海道線に乗るようにしていました。
田町電車区や東京機関区の裏側を通るので、今でも楽しい区間ですね。
まだ80系も走っていましたし、ほんの少しだけですが旅行気分も味わえました。
反対に品川から田町へは京浜東北に乗ると、高架区間から電車区が良く見えますね。
ついでに横浜から保土ヶ谷にかけても、横浜市電との並走がとても印象に残っています。
横浜駅で買った崎陽軒のシウマイを食べながら、ハマの単車を眺めたものでした。

▼志村TCさん▼
解説ありがとうございました。
なるほど、サンパチ式は明治でしたか。日露戦争の年でしたっけ。
皇紀というのは、2600年が近付いた頃、意図的に普及させようと画策されたものですかね。
国威発揚、戦意鼓舞のためには、利用できそうなものは何でも利用しようとしたのでしょう。
「紀元は2600年〜♪」の歌はCDを持ってたりしますが、元気が出るので結構好きなんです。
若原一郎と楠トシエが歌っているんだったかな。実は「愛国行進曲」も好きなんです。

水道橋のホームは、対向式の端から端まで側壁があって、外は見えなかったような…。
秋葉原・浅草橋も同じようなイメージなのですが、いつも見ていたのに曖昧なものです。
余談ですが、大阪環状線の東側区間のホームって、この辺と雰囲気が似ているんですよね。
同じ頃に作られたのではないかと思いますが、昭和の初期だったでしょうか。

▼都電20番さん▼
なかなか面白いシリーズになってきたようですね。
今回の「ツーショット」という定義も、今ひとつはっきりしないのですが、
都電の「上」を国電が立体交差している箇所、という意味でしょうか?
そうなると、都庁前の28・31系統というのは該当しなくなるのではありませんか?
代わりに、丸ノ内一丁目の15系統と、秋葉原東口の21系統、
万世橋(中央線と)の1・19・20・24・30・40系統、松住町の13・19系統(総武線)と、
同じく松住町の37系統(中央線とも)を加えて頂きたいと思います。
実際に撮るのは難しかったでしょうが、砂町の貨物線なんかも絶好のアングルですね。

国電以外だと、東武の浅草(22)や旧・隅田公園(30)、京成の町屋(27)と千住大橋(21)、
意外なことに地下鉄も、渋谷(6・9・10)や四ツ谷(3)や後楽園(2・17・18・35)があります。
中でも御茶ノ水の、丸の内線と13系統の出会いは絶景で、ホームからも良く見えましたっけ。
そういえば子供の頃の乗り物の絵本に良く描かれていたのが、御茶ノ水の聖橋周辺で、
神田川沿いに走るオレンジ色の中央線、高架を行くカナリヤ色の総武線、川を横切る丸ノ内線、
川面には船も浮かんでいて、そして左手にはお馴染みの都電13番線。とても印象的な光景でした。

単に「同じ画面に入れて撮影できる」ということでしたら、候補地はぐっと多くなりますね。
新宿駅前なんて嫌でも国電が入ってしまいますし、高田馬場では西武とも間近でご対面でした。
向島での東武との出会いや、錦糸町でのSLとの出会いなんかも、本に載せられていますし、
おすしさんの業平橋の写真なども、都電と東武の配置が絶妙ですよね。

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[2202] ご無沙汰してしまって おすし 2004/04/26(月)21:03 [メール]
 こんばんわ。
 スッカリご無沙汰してしまいした。
 ご案内頂いた、燃え尽きるその日まで、拝見。
 その気になって見ると、なんとも。

 表紙の7000飛鳥山。
 懐かしく。

 みなさんの、国電ホームから見えた都電。
 楽しく、見させていただいてます。

 ホント、遅くなって、申し訳なく。

http://members.jcom.home.ne.jp/osushiyo/romen0.html

[2203] いつもありがとうございます さっしい 2004/04/26(月)21:36 [メール]
▼おすしさん▼
都電最後の年、昭和47年は、殆ど写真を撮らなくなっていました。
おすしさんのようにカラーで撮っておけばと、今更ながら悔やんでいますが、
まぁしかし、高校生の身には、やはり高価であったようですね。
ホームからにしても交差にしても、あれだけたくさんあったのですから、
もっといろいろな場所で撮っておけば良かったのにと思いますが、
それを言い出すと、きりがなくなってしまいますね。

あの頃は街並みの中に都電の姿を見出すと、何かホッとしたものでした。
おすしさんのカラー写真からは、街の雰囲気も匂いも伝わってきますね。

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[2204] 心に浮かぶよしなしごとを さっしい 2004/04/26(月)22:53 [メール]
東京の駅や街の話をしていて、ふと思いました。

ここを御覧になっている方なら、心当たりがあると思いますが、
考えてみれば僕たちって、子供時代から、大した用もないのに、
電車に乗っては知らない駅で降りて、列車を眺めたり写真を撮ったり…。
たぶん皆さんも、地図はなくとも、そこらの駅名は暗記しているでしょうし、
23区内の殆どの駅の構造や雰囲気も知っているのではないでしょうか。
地下鉄の乗換など、パソコンソフトよりも親切に、人に教えられるのでは?

しかし、学生時代に勉強もせず、かといって汗と泥にまみれたりもせず、
ドラマのような青春を送るわけでもなく、地図と時刻表と雑誌を眺め、
休日には行き先も告げず、カメラを持ってフラッと出かけて行く。
親もたぶん「もっと男らしく」などと、もどかしく思ったことでしょうし、
今とっては、その頃の体験が特に人生に活かされているわけでもなく、
金儲けの材料にも、出世の糸口にも、モテる材料にもならず…。

でも皆さん、大抵の人が「これで良かった」と思っているでしょう?
何かに夢中になれた青春時代。いや、まだまだ現役の方も多いでしょうが、
それほど他人に迷惑をかけるわけでもなく、警察のご厄介にもならず、
一応は健全な趣味活動を続けてきたと言えるのではありませんか?
鉄道好きの人は、心の優しい人が多いのではないかと思います。
反面、押しが弱く、自己主張が苦手だったり、世渡りが下手だったり…

鉄道ファンというと、とかく視野の狭さを指摘されたりしがちです。
そりゃぁ、中には自己中心というか、他のことは目に入らないとか、
他人のことは考えられないような輩や、性格破綻者もいるのでしょうが、
自分は、そういう所謂「鉄ヲタ」とは、一線を画していたいと思います。
そしてやはり、鉄道ファンには「いい人」が多いのだと信じています。

あれ? 何を独りでボソボソ言ってるのでしょうか…?

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[2205] お久しぶりです。 坂下国郎 2004/04/27(火)8:57
都電20番様へ
恵比寿で8番、というのもありましたよね。

さっしい様へ
横浜方面へは東海道、帰路は京浜東北、よくぞおっしゃってくださいました。
私も同様でした。特に、東京機関区のウラのあたり、好きだったなぁ・・・・


[2206] 都電と他の列車(その2) 都電20番 2004/04/27(火)10:49
 他で都電と他社線(国鉄、私鉄)と一緒に見られる(撮影できる)ところといったらけっこうあるでしょうけど、どこがあるでしょうか。東京駅八重洲口は、東海道新幹線と都電17系統の電車を一緒に撮影できる場所でした。それと品川駅前〜高輪北町の区間でも、国電と都電を一緒に見ることのできるところがあったのでは。あと、忘れてはいけません、27系統の王子四丁目での貨物線との平面交差、他のサイトに写真が出ていたような気がしましたが。
 地下鉄だと南千住、22系統の電車と地下鉄日比谷線の電車を一緒に撮影できました。乗り入れてくる東武、東急の電車も撮影できました。私鉄だとあと、どこがあったでしょうか。
モノレールでは都営モノレールが、上野動物園前で20、37、40系統が不忍池専用線で交差していました。東京モノレールは、芝浦工場内で都電車輌と一緒の写真を撮ることができたはずです。


[2207] 都電は昔・・・ 都電20番 2004/04/27(火)11:51
 某FM局で「五感を磨こう」というキャンペーンをやってまして、その中で都電荒川線も紹介されていました。その中で「都電はかつて都内のあちこちを走っていた。」とか確か紹介されていました。でも、そういうことを想像でもいいので頭の中に思い浮かばせることのできる人って、どれだけいるかなとふと、思ったのです。例えば六本木の交差点、あそこに都電が走っていたということを想像するって若い世代の人たちってできるのかな、とそんなことを思ったりもしたのです。あの頃と今とでは、町並みというものが大きく変わってしまっていますからね。FMの放送で「都電は昔・・・」とか言っていて、若い世代はどれだけこのことにピンとくる人がいるか、鉄道ファンの人以外わからないだろうなと。
 でも、今の六本木に「チンチン、ゴー!」の音がまだしていたら、どうだろうな、そんなことを考えたりもしました。玩具で「昭和の音」シリーズというのがあるのですが、その中に「路面電車」というのがあるのです。買ってはないのですが、その電車の模型、都電なんですね。ただ6000形とも旧王電の車輌にも見えるようなスタイルではありますが。音がするんですね、「チンチン、ゴー!」のあの音が。
 「昔の都電」の資料を使って、昔の東京の町の良さというものを伝えるということができたらといつも思ってますが、特に都電なんか知らない、昔の東京の町並みが今のような高層建築ばかりの頃しか知らないという世代に、どうやってうまく伝えていくというふうにしたらいいのかなと。
 「五感を磨こう!」東京の町にかつて、「チンチン、ゴー!」のあの音がどういう存在感を持っていたのか、伝えていく意義はあると思うのです。


[2208] 昭和の光 志村TC 2004/04/27(火)13:16
都電20番さん、こんにちは。
「2207」で紹介された「路面電車」の卓上ディスプレイモデルですが、
私、以前に購入しました。形式は160・170形っぽい古いタイプの都電を
モデルにしていますが、その辺り正確さは追求しない方がよろしいと
思います。全体的には、なかなかまとまっていますよ。
肝心の音ですが、ご指摘の通り「チンチン、ゴー!」だけでちょっと
味気ないです。車掌さんの声とか入っていたら最高でしたが…。

ここで見れますが、なぜかビューゲルが付いていません。実際は透明
プラパーツに印刷されたビューゲルが付いています。http://www.takaratoys.co.jp/souzou/hikari/index.html


[2209] これでしたか 都電20番 2004/04/27(火)18:11
 志村TCさん、「昭和の光」ですか、写真では車内のライトが点灯している様子が出てますが、よく出来てますね。これで「チンチン、ゴー」と音が出るわけですか。車輌の出来はどうであれ、本当にノスタルジックな気分に誘われます。
 昭和30年代の、東京に限らず町の中で、電車の姿というのは空気、水みたいな当たり前の風景ではありました。車がたいして走っていなかった頃は、線路に釘を置きそれを電車に轢かせて手裏剣のようなおもちゃを作って遊んだという体験を年配の方の中では持っている方がいますね。今だったら列車走行妨害とか何とか言われるでしょう。大らかな時代があったんですね。
 それと遅ればせながら坂下さん、8系統恵比寿の情報ありがとうございました。あそこも都電と山手線電車を一緒に見られる場所ですね。


[2210] 記憶の彼方に さっしい 2004/04/27(火)19:53 [メール]
▼坂下国郎さん▼
やはり同じことを感じていた方がいましたか。
いや、皆さんそうなんでしょうね。東京から品川まででも、
東海道線のクロスシートに座ると、何か得をしたような気分になりました。
当時は横須賀線も同じ線路でしたよね? 今思えば、すごいことでしたね。

ところで恵比寿での8番って、ホームから都電が見られたという意味ですか?
それとも、都電と国電と一緒に写真が撮れたということでしょうか?
山手線でも渋谷−品川間は、自分としては一番馴染みのない区間でしたもので。
でも、もし後者だとしたら、都電20番さんが挙げていますよ。

▼都電20番さん▼
南千住車庫では僕も、営団・東武・東急をそれぞれ一緒に入れて撮っていました。
その他の場所では特に意識しませんでしたが、新宿や上野や万世橋あたりでも、
都電の走っているその向こうに国電が入っている、というのが多かったでしょうか。
逆に、車内から撮ったことも時々ありました。手ブレが多くて難しいのですが。
南千住や秋葉原のは都電アルバムにも載せましたが、その他に水道橋の13番とか、
先日ちょっと書いた亀戸とか。…でも、どちらも失敗してしまいましたけれどね。
王子貨物線との平面交差の箇所は、レコードもありましたよ。

今の東京の街に昔の都電の姿を想像するというのは、実は、若い人でなくとも、
僕自身でさえ、かなり難しくなってきているように思えます。
この前書いたように、外濠や神田川沿いなら何とかなるのですが、
街中の大きな道路となると、ビルの姿も殆ど変わってしまっていたり…。
線形が保存されている新宿の「四季の道」でさえ、全くムードが変わっていて、
往時の姿を脳裏に蘇らせるのは、かなり難しいという気がしました。
大久保車庫から抜弁天へは、ある程度、昔の雰囲気も残っていますけれどね。

ところで、純粋な疑問というか、わからなくなってしまっているのですが、
恵比寿の8系統に関しては「都電と国電を一緒に見られる場所」という意味でなら、
[2200]の投稿で、20番さん、真っ先に書いているのではありませんか?
山手線ガードって、その意味ですよね? でしたら[2209]がちょっと謎なのですが。

▼志村TCさん▼
楽しい製品のご紹介ありがとうございました。
今回は食玩でなく、比較的高価なモデルですね。
確かに160・170あたりに近い雰囲気のようです。
全体写真は、制作段階での撮影だったのでしょうか。
拡大写真の方は、ビューゲルも付いて赤帯も入っていましたね。

作者の山田卓司さんはTVチャンピオンで有名ですが、
先年、京急百貨店における「達人展」で、実作品を見る機会がありました。
活き活きとしたドラマのある情景の表現に、ひたすら感動したものです。

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[2211] 18系統はいったいどうなったの? 都電20番 2004/04/28(水)9:38
 まずすいませんでした。「都電と他社線を一緒に見られる(撮影することができる)ところ」ということで書いたのですが、そうなると2209の記述は余計にわからなくしてしまう書き方でした。申し訳ないです。

 以前都電18系統の廃止時期があやふやなのではということはここの場でも書きましたが、やはり交通局はこの系統のはっきりとした廃止時期を記述してないですね。それは、「東京都交通局70年史」の52、53ページにある代替バス運行表にも表れています。
 この表には昭和38年(1963年)12月1日、14系統(新宿駅〜荻窪駅)の代替であるバス79番沓掛町〜新宿駅から昭和47年(1972年)11月12日、38系統(錦糸堀車庫〜門前仲町)の代替である錦14番(錦糸町駅〜門前仲町)までの代替バスの一覧が出ています。これでみると昭和42年(1967年)12月10日に設定された40系統の代替は537乙番(駒込駅〜東京駅北口)など出ています。この表では代替バスの設定されなかった都電の系統は三本あると記述されています。2系統、8系統、25系統です。この説明では2は一日あたりの乗客数が約600人と少なく代替バス537番が三田〜神田橋間を併走していること。8は平行するバス101番(桜新町〜東京駅南口)の線を増やしたこと、25は西荒川〜亀戸九丁目間が専用軌道でバスの運行が困難なこと、亀戸九丁目〜浅草橋は平行するバス路線があること、とあります。
 すべての系統に代替バスが設定されているはず、ではありますが、ここでは18系統(志村坂上〜神田橋)については何の記述もされていないのです。35系統、41系統と路線がだぶっていて、そういうことで代替バスが設定されなかったとか普通は書いてありそうな感じですが、こういったことは一切書いてないのです、どうしてなのでしょうね。やはり、以前書いた「18という番号の留保を交通局が断念した」ということなのでしょうかね。
 これは18系統という路線が35、41両系統と重複している、そしてこれが一番重要なことでしょうけど、18、35、41系統すべて巣鴨車庫の担当の線であるということ、18系統の廃止時期のあやふやになっている要因はここにありそうという感じですがどうでしょう。
 前にも述べましたが「都電系統案内」(ネコパブリッシング刊)では確か18系統は昭和42年(1967年)廃止ということになってますね。「都電百景百話」(大正出版刊)も昭和42年となってたかと思います。しかし本来なら昭和41年5月28日に41系統と共に廃止になっているということなのでしょうけど・・・
「東京都交通局70年史」の代替バスの表を見ていて、あれと思ったのでまたこうして書いた次第です。


[2212] 18系統の謎・再び さっしい 2004/04/28(水)18:40 [メール]
▼都電20番さん▼
18番に関して、以前のやりとりは、1年以上も前でしたっけね。
結局、昭和41年の志村線廃止と同時に休止状態(法的には不明)となり、
42年の夏に正式廃止となったのではないかという、一応の結論でしたよね。
おすしさんの掲示板でだったか「18.41km廃止」という交通局の資料について、
僕は、それは「18.41系統」の誤記ではないかという推理をしましたっけ。
そして、実際には41年夏以降18番は運転されていなかったのだろう、と。

「都電百景百話」ですが、僕のには「昭和41年9月1日」と書かれていますよ。
細かい日付をテーマにするのでしたら、もう一度確認してみてください。
「続・都電百景百話」の方では「昭和42年9月1日」となっています。
「東京・市電と街並み」でも、最終運転日が「42.8.31」ですね。
「都電の消えた街」巻末の一覧では、最終運転日は「41.5.28」です。
本によって日付がまちまちなのは、著者による解釈の違いや、
また一部には、単純ミスによるものもあるのではないでしょうか。
…と言ってしまうのは乱暴ですかな?

ところで、
 ≫ 「やはり、以前書いた「18という番号の留保を交通局が断念した」
 ≫ ということなのでしょうかね。」
とあり、そういえばそんな推論もあったなと思い出したのですが、
あの時はもう一つ理解できずにいました。どういう内容でしたっけ?
もう一度、出来るだけ簡単にわかりやすく説明していただけませんか。
おすしさんの掲示板は過去ログを辿れないようでしたので。

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[2214] ご無沙汰しております 佐藤文俊 2004/04/28(水)21:25
 さっしいさん、皆さん

 現在、ペルシャ湾内ホルムズ海峡ケシュム島におります。今回はシェル石油の天然ガス採掘プラントの護岸工事と学校建設が主な仕事です。

 ここは中東の砂漠の島です。昨日、今日は砂嵐が酷く仕事にならないので、これ幸いと「鉄ヲタ」セッティングを完了しました。即ち、鉄道模型を作る環境を整えたと言う事です。

 今回は日本の自宅レイアウト用に都電の大塚車庫を作る予定です。津川洋行の煉瓦板と学校工作用紙を日本から持ち込みました。困るのはテロ防止で飛行場の荷物検査が厳しくなり、プラ用スプレー塗料を全て没収されてしまった事です。イラン国内にはラッカー塗料しか無いので完成出来ません。どうしましょう?

 酒も女も何もかも駄目のイスラム国家にあっては、仕事より先に趣味を楽しむ環境を整えておかないと気が狂います。

 でもこうして皆さんとネットを通して日本に居るのと同じように接する事が出来るのは有難い時代になったものだとつくづく感じます。ただし通信速度が極端に遅く、写真を見るのは難しいですけど。

 さっしいさん、坂下さん

 あの東京機関区と田町電車区を通過する時は楽しかったですね。EF5861や狭軌速度記録のチャンピオンマークを付けたクモヤ93や出発前で点検中のピカピカのクロ157なんかが間近かだけど丁度良い距離で見えましたね。

 私も今の東京の街で、こんなに狭い通りに都電て走ってたのかなあ?とか、この通り、もっとずっと広かったよなあとか、記憶と現実が合わない時がありますよ。

 東陽町の通りなんかあんなに狭かったですかね?やっぱりビルが高くなったからでしょうね。おっと、停電しそうです。

  


[2216] イラ「ン」は安全なんですよね? さっしい 2004/04/28(水)22:19 [メール]
▼佐藤文俊さん▼
ご苦労様です。イラクの自衛隊に勝るとも劣らないお仕事のようですね。
そちらから、石川啄木のローマ字日記のようなメールを頂き、
パソコンも大変な環境なんだなと感心しておりました。

あれれ? こう書いたら今「トリビア」で、啄木のローマ字日記ネタが〜!

ま、それは置いといて、いよいよ大塚車庫の着工ですか?
諸条件も厳しいことでしょうが、是非頑張ってくださいね。

東京機関区、あの頃の花形は、EF65の500番代あたりでしょうか。
もちろん、EF5861お召し機も輝いていましたし、EF581もEF661もいました。
鉄研として訪ねた際に、EF66だったかの運転席に乗せてもらいましたっけ。
もっとも自分は、当時から国鉄にはあまり興味が無かったのですが。

都電の入っていた道は、ご指摘のように、
「こんなに狭かったか」と感じる場所の方が多いみたいですね。
牛込見附や神楽坂交差点なんて、行くたびに実感として味わっています。
都電の走っていた頃は、あの敷石がアクセントで良かったんだけどなぁ。

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[2217] 今更つまらん訂正ですが さっしい 2004/04/28(水)22:30 [メール]
本当に全く、ど〜でもいいネタなんですけれど、
以前、拓郎さんの「ホームランブギ」を日テレで…と書きましたが、
正しくは、フジテレビだったんですね。さっきやってました。
それにしても阿部選手、ホームラン3本、すごいですねぇ。

いよいよゴールデンウィークということで、皆さんお出かけかな?
掲示板においでになる方も、減ってしまうかもしれませんね。
これからお出かけになる方も、お気をつけて。

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[2218] 18系統、消滅したのか!? 都電20番 2004/04/28(水)22:55
 「交通局が18という番号の留保を断念した」ということ。これは以前仲間の人と18系統の件でやり取りしていた中で仲間の方が言ってたことなのです。
 巣鴨の線は、志村橋から西新橋一丁目(田村町)に至る完全な雁行系統、一本道です。志村線がなくなれば神田橋から数寄屋橋方面、または大手町から洲崎方面の系統設定も可能なはずです。志村線の廃止はまだ財政再建計画による都電廃止計画の前の話です。巣鴨から新しい系統を設定するとしたら14や26(欠番)を使うより18を使った方が沿線住民になじみもありこの方がベストなわけです。財政再建計画による都電廃止の前は”14系統”、”41系統”の廃止というよりは、”杉並線”、”志村線”の廃止といった方がいいのでしょう。ということは、系統の設定をいじるということを局がまだこの段階では考えていたということなのかも知れません。計画以前の廃止は、”系統の廃止”というより、”路線の廃止”と言った方がいいのでしょう。
 どうです、説明がうまくいってるかはわかりませんが、そういうふうに見ると、昭和41年(1966年)5月28日限りで18系統は廃止になったというより、”18という番号を記した線の運行を停止した”という感じになるのでしょうかね。神田橋から17の線に入って数寄屋橋に、大手町から15の線に入って洲崎方面という新たな系統設定の余地を残しておいたフシがやはりあるのでしょうか。
 しかし昭和42年(1967年)7月2日に財政再建計画の年次計画が発表されます。都電の全廃が決まる(この段階では)わけです。18という番号を残しておくという意味合いはもうないわけです。昭和42年9月1日で18系統廃止と記載してある本がありますが、そう考えるとこの日限りで「18という番号を念頭に置いた巣鴨からの新系統設定の余地」これが消滅した、ということになりますか。うまく言えてるかどうかわかりませんが、18と言う番号の系統の廃止時期がどうしてあやふやになったのか、多少なるほどという感じはありますね。
 ちなみに交通局の年史には18系統の廃止日は記載されてませんが、「わが町 わが都電」の巣鴨車庫の説明のページに「昭和42年9月、18系統廃止」という記述があります。
 18系統は存在自体がこのようにして消えていったわけですから、代替バスのどうこうという記述すらされないわけです。都電最長の系統は、実にあやふやな形で消えたのです。


[2219] ”系統の廃止”と”路線の廃止” 都電20番 2004/04/28(水)23:10
 話しをちょっと追加させてください。
2218の話しから考えて”路線の廃止”と”系統の廃止”は違うということがわかっていただけたでしょうか。京都などは廃止ごとに経路を変更させたため廃止時の装飾電車には系統表示の垂れ幕とかはしてないはずです。東京では廃止計画以後は系統を念頭に置きながら廃止区間を決定していったようです。そういうことからも路線の廃止と系統の廃止が混同されるフシがあるようなのですね。


[2220] 一応、一言だけ。 志村TC 2004/04/29(木)1:16
久々に18系統、「謎めいた廃止」の話題が出ていますね。

一応、沿線育ちの志村TCとしては一言参加する義務があると思いますんで少々。
皆様、仰る通り、18系統は多くの書籍で廃止日が一致せず、困惑させられる
路線ですよね。お別れ電車も41系統の電車でした(地元では花電車と言っていま
した)し、私の手元にある昭和41年春頃発行の都交通局「都営地下鉄6号線特集」
でも「都電をはずすことになった志村橋・巣鴨間」という説明はありますが、
41、18といった系統番号を言及した記述はありません。
都電20番さんの仰せの通り、最長運行距離を誇った18系統は人知れずいつの間にか
廃止になったちょっと哀れな路線だったのではないでしょうか。
ちなみに私の叔母は18系統が志村坂上まで延伸になったった昭和19年当時、
勤労奉仕で沿線住民総出で軌道敷設工事に参加したと今でも自慢しています。
試走の一番電車は皆で拍手して迎えたそうですよ。
「自分達が作った路線」という事で愛着は他の路線以上だったと語っています。

なところで、あまり参考になりませんが本日はこれにて失礼させていただきます。


[2221] 18系統の変更はあり得たのか 都電20番 2004/04/29(木)7:21
 もし、交通局が昭和41年5月28日の41系統(志村線)廃止後、18系統をベースにした新たな系統の設定を考えていたフシがあったとしたら、それは当時の巣鴨線の状況がどうだったかを考えればわかりそうですね。志村線はあくまで地下鉄三田線(6号線)建設工事が始まるということで廃止になったわけで、地下鉄丸の内線(荻窪線)の開通で乗客が激減し廃止になった14系統(杉並線)とは違うのです。
 志村線が廃止になったとはいえ、巣鴨線の都電の需要はかなりあったはずです。志村線(41系統、巣鴨車庫〜志村橋)は廃止になりましたが、その代替バスは105乙志村車庫〜巣鴨駅という設定で、都心部までは行きませんでした。巣鴨車庫からの都電線の役割は志村線がバスに変わっただけで変わらなかったと思います。そのような中で新系統の設定を考えていたとしても不思議はないはずです。しかしこの当時すでに都電全廃という雰囲気にかなりなっていただろうし、18をベースにした新系統を設定したにしても、道路混雑で思うような運行は出来ないだろうというふうに判断したのでは。余地というものを作っただけで、結局翌42年(1967年)の財政再建計画での都電廃止計画によってすべてが消えてしまった、ということなのでしょうね。
 この辺のあたりの事情は、はっきりとした資料が残っているのでしょうか。


[2222] 薄々見えてきたようでもありますが さっしい 2004/04/29(木)10:10 [メール]
▼都電20番さん▼
すみません、やっぱり良く理解できませんでした。
「留保を交通局が断念した」という部分の「意味」だけはわかりましたが、
20番さんもこの説を支持しているようなので、少し質問させてください。

1≫完全な雁行系統、一本道です。

巣鴨の線が「雁行系統」で「一本道」であるとはどういう意味でしょうか。
「雁行」とは「斜めに並んで行く」という意味ですよね。
ここでの意味がはっきりしないのと、「一本道」との関係も今ひとつ不明で。

2≫志村線がなくなれば神田橋から数寄屋橋方面、
 ≫または大手町から洲崎方面の系統設定も可能なはずです。

なぜ「志村線がなくなれば」なのでしょうか。
もし必要ならば、全く新しい系統を設定しても構わないのではありませんか。
番号にしても欠番を充てることにこだわらず、42以降でも良かったのでは?

また、この考えだと、志村線全通時に新設系統を「41」にする必要はなく、
別に「26」でも良かったのだということになりませんか?
そうしなかったのですから、仮に「18」を欠番として保留していたとしても、
将来、新系統にその番号を割り当てるとは考え難いのではないかと思いますが。

3 ≫そのような中で新系統の設定を考えていたとしても不思議はないはずです。

昭和40年代に新設系統を想定するということ自体、自分には信じ難いのですが、
既存の系統を利用するなり充実させるなり、もしくはそれこそ18番の残余区間の、
巣鴨車庫前−神田橋間で運行を続けても良かったのではないかと思うのですが。
わざわざ一旦運転を中止して、番号だけを確保しておくという必然性があった?

また、仮に18番を復活させるということがあったとした場合、
廃止した系統番号を復活させるよりは、既存の番号の運転区間を延長して、
新たな運転区間とする方が、法的(?)にも簡単だということなのですか?

前回「できるだけ簡単にわかりやすく」と贅沢な要望を書きましたが、
多少長くなっても構いませんので、もう少し説明して頂けると有難いです。

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[2223] 内容とは別に さっしい 2004/04/29(木)10:56 [メール]
▼都電20番さん▼
都電に関する、特に歴史的な話題は楽しく、有意義でもあるのですが、
今回の[2219]の書き込みには、ちょっと驚きました。
いや、正直言って、カチンと来た、というか、ムッとしました。

 ≫”路線の廃止”と”系統の廃止”は違うということが
 ≫わかっていただけたでしょうか。

とありますが、僕はその程度の区別がつかぬ者と見られていたわけですか?
47歳の誕生日以来お付き合い頂いて、かれこれ1年半になろうかと思います。
都電に関する知識の絶対量では20番さんにかなわないのかもしれませんが、
これでも、都電愛好・研究家の端くれであるとは自負しておりますし、
こと路線や運転系統の歴史に関する研究では人後に落ちぬものと、
少なくとも自分でだけは、そのように思っています。
作成した路線図なども、正確さについては聊かの自信を持っています。

 ≫路線の廃止と系統の廃止が混同されるフシがあるようなのですね。

僕にもそういう「フシ」があるように見えたのですか?
今回の質問は「留保を交通局が断念した」という意味に関してであり、
志村線の廃止が「18番を消すため」だったなどとは、毛頭考えていません。

冷静に考えれば、話の流れから見て、親切心から発したものであり、
誤解を解消しようとしてくれているように感じられなくもないのですが、
何か、初心者に諭すような、偉そうな言い方に思えたもので…。


ついでにもう一つ質問なのですが、

 ≫そういうことからも路線の廃止と系統の廃止が混同される…

この「そういうこと」とは、何を指しているのでしょうか?
もし「京都と東京の違い」という意味なのだとしたら、
自分は京都市電の廃止については、あまり情報を得ていなかったため、
混同しようにも、元々そういう知識自体、持ってはいませんでした。

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[2225] 体験談ありがとうございます さっしい 2004/04/29(木)13:06 [メール]
▼志村TCさん▼
18系統廃止に関する謎については、
1年半前、都電20番さんとお近づきになれた際、
確か最初の質問として、僕が発したのではなかったかと思います。
廃止日の記載が本によってまちまちで、しかも志村線の廃止以後は、
18番の電車が運転されたという形跡が(写真等)ないのですね。

当初、都電20番さんは豊富で正確な知識をお持ちのようにお見受けしたので、
この話題を投げ掛けたところ、お返事を頂き、何度かやりとりをしました。
そのあたりは、当時のログを見て頂ければわかるかと思いますが、
興味がおありでしたら、右下のボタンを数十回押して御覧になってください。
(過去ログも検索しやすいようにした方が良いのでしょうけれど)

最終的に20番さんの結論としては「局の公式記録には廃止日の記載がない」
「廃止の認可が下りず、志村線廃止後は休止になっていたのではないか」
というあたりに落ち着いたようでした。(後者は他の方の意見だそうです。)

更に自分自身の考えを付け加えるならば
「18系統の最終運転日は昭和41年5月28日で、
正式廃止日は昭和42年9月1日」だったのだと思っています。
42年からの計画廃止以前は「経路の全区間の路線が廃止にならなければ、
系統の廃止は許可されなかった」そうなのですが、志村線以前には、
26と14しか廃止の例がないので、18の場合だけに適用されたのか…。

不勉強のため、局の公式記録とはどんなものなのか知らないのですが、
以前おすしさんの掲示板上で、どなたかが紹介してくださったように、
昭和41年の志村線の廃止の際に、廃止となった系統が「18と41」と
記載されていると思われる事実もあったらしく、迷うところです。
まぁそういう手続き上の問題は、このぐらいにしておきましょうか。

志村線が「沿線住民の勤労奉仕で建設された」とは良く聞く話ですが、
こうして実際にその体験を(間接的にでも)語って頂いたのは初めてです。
軌道工事とは、実際にレールを担いだり、ボルトを締めたりしたのですかね。
(土木工学などには疎いもので、あらぬことを口走っていたら済みませんが。)

それが、わずか22年後には撤去されてしまうのですから、当事者にとっては、
寂しいような悲しいような悔しいような、複雑な気持ちだったことでしょう。
何かまた参考になるようなことや体験談などありましたら、ご披露下さい。

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[2227] ≪参考≫都電18番談義 さっしい 2004/04/29(木)14:14 [メール]
「過去ログを参照せよ」というのも不親切なので、せっかくの機会ですから、
2002/12/28の[706]以降、18番に関する数回のやりとりを再掲します。
長くなりますが、たまにはこういう議論も良いものかと。
尚、見易いよう、さっしいの発言を青都電20番さんを赤にしました。

それから僕自身としては、18系統の謎が解けずにいます。最終運転日が、41系統と同時の昭和41年5月28日説、その時点では短縮で、全廃が同年8月31日説、更に翌42年8月31日説と、本によってまちまちで混乱しています。短縮されたといわれる志村線廃止以降の18系統の写真を見たことはないのですが、正しい情報がありましたら、お教え頂ければと思います。

18系統については昭和42年に廃止とどの本にも書かれていますね。けど私も18の昭和42年の写真というのを見たことはないです。41と同時に廃止になったのではとも思うのですけどね。それか、41の廃止の段階で運転休止ということになっていたのではとも考えられるのですが、そういうことはあり得たでしょうか。

おぉ、やはりそうでしたか。都電20番さんほどの知識と情報網を持ってしても、やはり18番は謎ですか。41系統と同日を廃止年月日としてきっぱり書かれている本もあります。都電に関する疑問のうち、現在最もはっきりさせたい問題です。考証よろしくお願いします。

今、一番都電関係書籍で手に入りやすい「都電が走った街今昔」では、18系統の廃止は昭和41年5月28日、41系統と同じ日になっています。局の資料ではどうでしょうか、「東京都交通局60年史」には、18の廃止年月日は記入されていないのです。他の年史(70、80年史)にも出ていません。ただ、写真集の「わが町 わが都電」には、18は昭和42年9月廃止と出ているのです。年史に全然18の廃止に関しての記述がないというのはどうしてでしょうか。正確な18の廃止日というのは、いつなのか、やはり41の廃止と共に休止、そして42年9月正式に廃止ということになるのでしょうかね。

それと、18系統は装飾電車の出なかった系統ですね。杉並線(14系統)が昭和38年に廃止になって以来、装飾電車の運行されなかった系統は、全学連の活動が激しくなり装飾電車の運行の中止となった昭和43年の廃止線(9、10、11、15、25、35、39)を除くと18系統だけなのです。少なくとも、41廃止時に18の装飾電車は出ていませんから、あの段階では18は廃止にはやはりなっていないのではと思うのです。しかし、昭和42年の18系統の写真というのは見たことがありません。昭和42年当時、18系統は運行されていたのでしょうか? 私が思うに、休止になっていたのではと考えるのですがどうでしょう。

う〜ん、ますます18番の短縮説は怪しいですかな?「RM LIBRARY 22」には、はっきりそう書かれているんですけどねぇ。「都電が走った街 今昔」では、きっぱり41系統と同日になっていますよね。なるほど休止ですか…。交通局の公式発表というのは無かったのでしょうか。

実は志村線廃止についての交通局のチラシの写真を見つけました。「巣鴨志村線廃止のおしらせ」と出ています。18、41といった系統についての記述はまったく出ていません。そう、それと装飾電車の側面のお知らせ、41は「永い間ご利用ありがとうございました」でしたね。系統での記載ではありません。つまり、系統単位での都電路線廃止は、昭和42年の廃止計画が確定してからではないかと。それ以前は、あくまで路線単位での廃止ではなかったか、そう思うのです。
そうなると、18は志村線廃止時には廃止にはなってなかったということになりますね。巣鴨車庫〜神田橋の区間が残っているわけですから。ただ、機能はまったくしていなかったでしょう。35で運用が十分間に合うのですから。昭和42年9月に18が廃止になっているとすれば、廃止計画確定後でしょう。もし、系統としてそれなりに機能していれば、12月に銀座線他と共に廃止という感じになっていたかも知れませんが、9月廃止になったのは、系統(路線)としてはまったく機能していなかったからではないかと思います。年史(局の)に廃止日が記載されていないのは、このあたりに理由がありそうです。


さて、18系統廃止の件ですが、「わが町 わが都電」には、”巣鴨電車営業所”のページのところには、”昭和42年9月廃止”とあります。ところが、年表の欄には廃止日は記載されていないのです。これはどうしてなのでしょうか。年史もそうなのは書きましたが。どうして、年表に18の廃止日を、交通局の資料は書いていないのでしょう。これは何らかの事情があるのかと、やはり思ってしまいますよね。

東京都交通局の年史にどうして18系統の廃止日が記載されていないのか、考えてみたのですが、もしかしたら、営業運転の終了日と正式に手続きを得て廃止になった日が異なっているのではないかと思ったのです。それだったら、記載はできないでしょうね。18の営業運転終了は41と同じ昭和41年5月でいいと思います。ただ、18は巣鴨車庫前〜神田橋という区間が残っています。この区間はまだ廃止の確定しているところではありません。だから、41は廃止にできても、18に関しては残存区間があるため、名目上巣鴨車庫前〜神田橋に短縮して、形だけ残しておいたのではと思うのです。ただ、営業運転は終了しているので、路線図からは削除されているでしょう。昭和42年の路線図に18が載っていないのは、名目上ただ残してあるだけの線だったからでしょう。と、いうことは18は営業終了日は昭和41年5月、正式な廃止日は昭和42年9月ということになります。昭和42年9月といえば都電廃止計画が確定した直後ですからね。系統として営業運転をしていたものだったら、銀座線などと同じく12月に廃止になっていたでしょう。9月に廃止になっていたというのは、形骸的に残った系統だったからでしょう。と、私は思うのですがどうでしょうか。正しいかどうかはわかりませんが。

いろいろと考えてくださったようですが、特に最新考察は理路整然、なるほど納得させられるものがあります。さすがですね。助かりました。18の謎は、そのあたりが落ち着きどころなのでしょう。路線(ハード面)の改廃には法的な部分が大きくなってくるのは当たり前ですが、運転系統(ソフト面?)というものはどういう手続きを取っていたのでしょうか。許可だか認可だか届けだか分かりませんが、やはり法的にきちんと規定され、安易な改廃はできなかったものなのでしょうね。都電などの場合は、路線自体と運行設定とが、特に緊密な関係にありますからね。(なんか変な言い方してるかな?…普通の鉄道と違い、路線の廃止というのが運転系統単位で進行していったという意味なんですが。)

18番に関する話題は、ここまでだったと思います。
ともあれ、好きなテーマに関して語り合うのは楽しいものですね。

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[2228] 京都市電の廃止 TADA 2004/04/29(木)14:35
天気のよい休日、どこにも出かけずパソコンに向かっております。
京都市電の画像をUp中で、いろいろ調べるのに下記のサイトを参考にさせていただいています。
http://www.trolley.net/kyoto/
系統の変更や受け持ち営業所の変遷なども一覧になっています。
これで見る限り京都の廃止も路線単位と営業所単位がありますね。
路線単位では伏見線と烏丸線、他は営業所の廃止を含め路線も廃止になっているようです。
最後まで残った22が九条車庫から烏丸車庫に最後に変更になっている例もあります。

東京に限らず大都市の路面電車の廃止は営業所(車庫)単位の廃止ではなかったのでしょうか。
系統の廃止、という表現よりそこを受け持つ営業所の廃止と見る方がわかりやすいと思います。
多数の路線を持っていた大都市路面電車の廃止は他の鉄軌道線の廃止とはちょっと違うところですね。
41の場合は20番さん言われるように路線の廃止ですし、西荒川などいくつかの例外もありますが。

田町電車区でクモヤ93を見たときはとても嬉しかったですね。クロ157はさすがにありません。
電車から見下ろす路面電車では京浜急行から見た川崎市電も印象に残っています。

深夜アニメの鉄人のオープニングにもしっかり土星が登場していました。



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[2229] Re2204 TADA 2004/04/29(木)14:50
連続書き込みで失礼します。
鉄道ファンであってのなにかしらプラスになったことといえば・・・
>地図はなくとも、そこらの駅名は暗記しているでしょうし、
>23区内の殆どの駅の構造や雰囲気も知っているのではないでしょうか。
>地下鉄の乗換など、パソコンソフトよりも親切に、人に教えられるのでは?
このような知識が役に立ったことがあります。
大規模天災で応援者を送り込むのに現地へのルートをどうとるか・・・
毎日変わってゆく状況と分断されがちな連絡網、地の利のまったくない集団を目的地までいかにスムーズに案内するか、などなど。
なんで関西にいたことないのに梅田の地下で迷わないんだ?と大阪の方からも言われて、ちょっと嬉しかったです。

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[2230] 今からちょっと歩いてきます さっしい 2004/04/29(木)15:49 [メール]
▼TADAさん▼
今日はこの掲示板も、あれこれ盛り込み支離滅裂の様相、
皆さんの失笑を買っているかもしれませんが、まぁお許しを。
こちらもこの好天の祝日に、実は自宅の庭以外どこへも出かけず、
今からコンビニにでも行ってこようか、などと考えている次第です。

先日来、京都市電を楽しく拝見しております。まだ続くのですね。
京都の場合、街自体が碁盤の目ですので、路線の面白みは少ないですが、
そこはそれ1200年の歴史の重みを持つ古都ですから、見所は多いでしょう。
車輛もさることながら、辺りの風景や街並みにも興味が湧くところです。

僕の場合は殆どが修学旅行がらみで、中3の万博の年は雨ばかりでした。
それでも宿舎の窓から見下ろしたりして、少しは撮ってましたっけ。
高3の穏やかな春の写真は、トップ画像として時々載せましたっけね。
実は国文科だったもので、大学の研修旅行も京都・奈良だったんですよ。

廃止時の方針に関しては、東京よりも事情は複雑だったようですね。
僕も改めて興味を持ち、調べてみようかとも思いました。
しかし、やはり都電以外にはあまり熱中できないようです。
というより、都電の昔に関して、まだまだ不明な点がたくさんあって…
今は果敢にも、明治・大正期へのアプローチを試みているところです。
しかし、本来の資料に接する機会もなく、単に無謀なだけかもしれませんが。

川崎市電というのは、一切記憶にないんですよ。
京急も、京浜間は殆ど乗らなかったのではないかと思います。

[2204]の独り言へのレスは大変嬉しかったです。
何だか急に、胸の内に浮かんだことを書きたくなってしまって…。
でも中学時代「鉄道ファンに悪い人はいない」といつも言っていたのは、
やはり同じ鉄道ファンである友人だったもので、信憑性は如何なものか。

僕の場合は、旅先や、初めての街でも、良く道を訪ねられました。
地元民みたいに平気な顔をして歩いているからなのでしょうか。
大学のサークルで、地方出身の新入生を勧誘するときは、
出身地や駅名を聞けば、大抵、適当な話題で場を繋げたものです。
もちろん、行ったことのない土地の方が、ずっと多かったのですが。

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[2231] ほとんど日記状態ですが さっしい 2004/04/29(木)22:19 [メール]
夕方散歩に出たら、急に焼き鳥が食べたくなったので、
山を下りて(一体どんな所に住んどるんじゃい?)15分ほど歩き、
お婆ちゃんの焼き鳥屋さんで、ねぎ肉とレバーを買ってきました。
それを抱えて、コンビニではカップラーメンと「お〜いお茶」

夜は、昨日録画しておいた「トイストーリー2」を見て泣き、
横目で巨人のメチャ勝ち試合と阿部君の大活躍を眺め…
自分自身もテンション高めで、GWの始まりとしては、まぁまぁ。
でも、パソコンに向かってチマチマ書きこんでいるようでは…?
TADAさんを見習って、新ページでも作れば良いのですけれどねぇ。
そこまでの元気は、今一つないもので。

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[2232] 説明の方を・・・ 都電20番 2004/04/30(金)11:28
 まずは2219の投稿に関しては申し訳なかったです。「この情報は自分だけが知っている特ダネ情報だぜ。」みたいな書き方でした。あれでは「何だこの独りよがりの書き方は!」と誰もが思ってしまうでしょう。
 あと、”そういうことからも”というのは余計な書き込みでした。以前仲間の方とのやり取りを思い出しながら書いていたものでして、この表現はまずかったです。

 さて、2218の書き込みについてなのですが、
”雁行系統”というのは、”35、18、35系統が路線図上でいうと”という言葉を付け加えるべきでした。こうするとわかってもらえるか、どうでしょうか。
あと、系統設定に関してですが、まず系統番号については、”既存の番号内で”という表現をしてなかったのは申し訳なかったです。それと、巣鴨線は41系統(志村線)が廃止になってもまだかなりの需要があったはずで、昭和41年(1966年)の段階では全廃というのが見えていてもそれが正式に決まったわけではない、まだ都電は都内の主要な交通機関として交通局は位置づけていたと思うのです。それで、新たな線の設定という余地を残しておいた可能性もあるのでは、と考えたのです。それと、巣鴨車庫前〜神田橋で運行を続けていてもよかったのでは、ということですが、それだと、35系統と完全に重複してしまうわけです。ちょっとうまく言えてるかどうかですが、巣鴨車庫前〜神田橋の設定の枠で17系統の線へ、あるいは15系統の線へという可能性を局の方で取っておいた、都電全廃が決まってない中で、巣鴨車庫運用線というものを局ではまだ重要視していたということでこのようにしていたのでしょうか。すいませんかえってわからなくしてしまったかも知れません。

 書くとかえって更に事を混乱させることにならないか、今度こそ掲示板という場所に居られなくなってしまう身分となってしまうのではないかなどと思いながら正直言ってビクビクしながら書いています。


[2233] いよいよ連休ですね。 志村TC 2004/04/30(金)14:31
さっしい様 こんにちは。

「2227」の「18番談義」の再掲載ありがとうございます。
以前、こちらの過去ログを1日がかりで全て閲覧させていただいた事が
あるのですが、その時もさっしい様と都電20番様の18・41談義は特に
注視して熱読させていただきました。
こうして、まとめて再掲していただくとより一層、わかりやすく資料と
して手元に留めておきたいと思いまして、只今プリントアウトしたとこ
ろであります。
当時、巣鴨車庫に勤務されていた方にお話が伺えれば謎は速やかに
雲散霧消するのかな…なんて思ったりしました。

「勤労奉仕」の件。多少、参考になられたそうで、記述した甲斐がありま
した。叔母とは滅多に会わないので、次回会った時に詳しい話を聞いてみ
たいと思います(マジにチャンスはもう少ないでしょうから)。
只、私の父親にこの件、聞いてみました。父は昭和18年1月に横須賀海兵団
に召集されましたがこの時点では勤労奉仕の話は来ていなかったそうです。
1回目の帰郷が許された時、下板橋〜板橋十丁目まで延伸されていて(19年
5月でしたっけ、1回目の延伸)、
これは便利になったと思ったそうです。叔母達に動員の命令が来たのはその
後だったのでしょうね。で、その2回目の延伸工事で志村(志村坂上)まで
到達したんですね。父が再び戻れたのは終戦後で生きて生還できた喜びと同時
に自宅の前まで延びている軌道を見て、時の流れの早さを感じたそうです。

お話かわりますが29日、私は板橋駅前で開催された「滝野川新撰組まつり」を
見物してきました。滝野川新撰組と日野新撰組と横須賀甲冑隊というマニアック
な集団のパレードがありました。途中、討幕浪士の斬りこみがあって「京の巷に
轟く剣戟の響き」なんて殺陣パフォーマンスがあったり面白かったです。来年は
私もパレードの一員になりたいなあ、なんて気持ちがムラムラと…。

それと、元気なさっしい様を期待しています!いいGWをお過ごしください。
                          乱文にて失礼しました。


[2234] わかって頂きたかっただけです さっしい 2004/04/30(金)18:31 [メール]
▼都電20番さん▼
いろいろと失礼いたしました。加えて、ご回答ありがとうございます。
やりとりに関しての苦言と、都電の話題そのものとは、切り離して記しますね。

都電に関してあれこれ語り合うのは、瑣末的なことであっても楽しいのです。
(以前言いましたように、技術的・工学的な面ではお相手できませんが。)
ただ、この場での話題の進め方に、違和感を覚えることが続いたもので…。
感情だけでレスを書いた後は、自分でも大人気ないと思って反省はするのですが、
まぁここは自分の管理下だから、多少は大目に見てもらおうか、などと甘えています。
それにつけても、そちらの掲示板での僕のお節介は「余計なお世話」だったと思います。

このところ「こういう書き方をされると気に触る」という点が、確かに何回かありました。
基本的に自分は、一言の「言い捨て」や「言い逃げ」みたいな書き込みは好まず、
20番さんのように、きちんと書いてくださる方に対しては、好意的に解釈するのですが、
「でも、こういう言い方はないんじゃないの?」と感じることが時々ありましたもので…。
最も気になるのは、こちらのレスが無視されているように感じる場合でした。

僕はお茶を濁すのが苦手なもので、今回の書き込みに関しても少し書かせて頂きますが、
 ≫「この情報は自分だけが知っている特ダネ情報だぜ。」みたいな書き方でした。
とありましたが、またしても驚きました。こちらはそんなことは全く感じていません。
そもそも、どの部分を「特ダネ情報」だと思われたのでしょうか?
まさか「”路線の廃止”と”系統の廃止”は違うということ」ではありませんよね?
それとも「京都などは廃止ごとに経路を変更させたため」という件なのでしょうか?
そんなことは、路面電車関係の本をちょっと読めば出ていることでもありますよね。
(もっとも自分は詳しくは把握していませんが、それを「特ダネ」とも感じません。)

「東京では廃止計画以後は系統を念頭に置きながら廃止区間を決定していったようです。」
という点も、単に明白な事実だと思います。自分もリアルタイムで体験していますし。
「今回はどこの線(区間)が撤去されるから○系統が廃止される」だったわけではなく、
「今回は○○車庫の全部の系統と△△車庫の系統の一部が廃止される。
 従ってこの区間は運転系統がなくなるので撤去する」という感じだったわけですよね。
もちろん、これにしたところで、「特ダネ情報」でも何でもないでしょう?

ですから実は今回も、何を謝っていらっしゃるのか、正直言って良くわからないのです。
ということは、こちらの不快感(とは言いたくないのですが)も伝わっていないのでは?
もう一度言いますが、今回は「この道の後輩に教えてやる」といった感じの書きようを、
単にこちらが「なんだい偉そうに」と感じたという、それだけのことなのです。
言っている中身が間違っているとか、そういう指摘をしているわけではありませんし、
「自分だけが知っている」ということの価値を認めて(羨んで)いるわけでもありません。
「事実を知りたい」という部分の価値観が、お互い、異なっているのかもしれませんね。

言葉のやり取りというのは、自分の考えや感情を相手に伝えるためのものです。
今回は、自分の気持ちがあまり上手く伝わっていなかったようなので、
こちらの説明不足だったのかと、かえって申し訳なく感じている次第です。
しかしそれと同時に、大の大人に対して縷々説明するのはかえって失礼かとも思いますし、
この程度の他人の感情ならば、もう少し理解してくれて良いのではないかとも感じています。

書き込むことに恐れを感じる、という状態に追い込んでしまった点は申し訳ありません。
しかし、公の場に発言を載せるということは、多かれ少なかれ責任を伴うものでしょう。
情報内容の正しさ、情報ソースの確認、また、法的な面や、他者の感情への配慮、
こういった点は、いくら意識しても、し過ぎるということはありませんよね。
もちろん、友人同士の気楽な雑談の場という面も、大いに享受して頂きたいのですが、
子供同士の放談の場ではないのですから、やはり緊張感を伴う場合もあるかと思います。
願わくは、自分だけが「叩かれている」などとお感じになることの無きよう。

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[2235] 18番論争? さっしい 2004/04/30(金)20:51 [メール]
▼都電20番さん▼
さて、都電に関しては、細かい部分にまでこだわって話を続けましょうか。

こちらが質問して説明していただいたことは、特に一所懸命読んでいます。
しかし、今回のご説明でも、何だか良くわからない点があるのです。
年を取って、自分の理解力が低下してきているのかと思ったり、
いやいや、もともと文章の読解力が無いのかなと悩んだり…

まず、前回の【質問1】のご回答ですが、
 ≫”35、18、35系統が路線図上でいうと”
とお書きになったうち、片方の「35」は「41」の誤記かと思いますが、
「互いが同じ経路とその延長上にある」とでもいう意味でしょうか?
う〜ん、何か文章では上手く言えないものですねぇ。
「41+35の経路上に18がすっぽり含まれている」とでも言えばいいのかな?
これに関しては、仰っていることは大体伝わってきたようです。

【質問2】の「志村線がなくなれば」に関しては、
すみませんが、どの部分が回答に当たるのかわかりませんでした。
再度ご説明を頂ければと思います。見落としていたらごめんなさい。

【質問3】への回答は、以下の箇所だと思えばよろしいのですよね。
 ≫巣鴨線は41系統(志村線)が廃止になってもまだかなりの需要があった
 ≫はずで、昭和41年(1966年)の段階では全廃というのが見えていてもそれが
 ≫正式に決まったわけではない、まだ都電は都内の主要な交通機関として
 ≫交通局は位置づけていたと思うのです。それで、新たな線の設定という
 ≫余地を残しておいた可能性もあるのでは、と考えたのです。

これに対しては、やはり見解が異なるようです。当然ながら昭和41年の時点で、
巣鴨以南の白山通りにも、都営地下鉄6号線の建設が決定していたわけですし、
「まだ都電は都内の主要な交通機関として交通局は位置づけていた」とは、
自分にはどうしても思えないのです。(客観的な根拠があるわけではありません。)
何か、拠り所となる資料でもあるのならば、是非ご教示下さい。

 ≫それと、巣鴨車庫前〜神田橋で運行を続けていてもよかったのでは、
 ≫ということですが、それだと、35系統と完全に重複してしまうわけです。

これは以前に僕自身が書いた内容と同じですよね? ですから当然承知しています。
(う〜ん、他所の掲示板だったかメールだったか、今ちょっと失念していますが。)
だからこそ「短縮18番」というのは存在価値がなかっただろうと述べましたよね。

前後の文脈がわかりにくかったので誤解されたのかもしれませんが、
今回僕は、20番さんの、
 ≫巣鴨線の都電の需要はかなりあったはずです。(中略)
 ≫そのような中で新系統の設定を考えていたとしても不思議はないはずです。
という意見に対して、だとしたら系統の新設などを考えず、18番の区間運転でも
対応できるのではないか(もちろん35番でも)という意味で言ったのです。
神田橋という場所が中途半端なので、35番の増発の方が現実的でしょうけれど。

ついでと言ってはなんですが、ご存じでしたら教えてください。
18番が営業していた時代に、35番の区間と完全に重なってしまう、
(例えば巣鴨車庫前−神田橋というような)運転は、実際にあったのですか?
また逆に、同じ区間における35番の運転はどうだったのでしょうか。
このあたり(途中折返しの区間運転など)20番さんはかなり詳しそうですので。

いろいろ質問ばかり連ねてしまって、混乱するかとも思いますが、
逐一お答え頂ければ、とても助かるのですが。

複数の項目を一つの文に無理にまとめようとなさらなくて結構ですし、
改行箇所が増えて縦のスクロールが長くなっても構いませんので、
読みやすく書いて頂けると有難いです。注文ばかりですみません。

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[2236] 志村線関連の歴史資料 さっしい 2004/04/30(金)21:16 [メール]
▼志村TCさん▼
ご存じかもしれませんが、参考になればと思い、
18・41系統関連の路線の歴史(区間ごとの開通年月日)を記しておきます。
(「わが街 我が都電」より抜粋)

  M37/12/08 土橋−御茶ノ水(神田橋−錦町河岸を含む)
  M41/04/12 神保町−春日町
  M42/01/20 春日町−指ヶ谷町の一部
  M43/04/30 指ヶ谷町−白山下
  M44/07/14 白山下−小石川原町
  M44/11/02 小石川原町−郡市境界(西丸町)
  M45/04/30 小石川境界−巣鴨橋(巣鴨二丁目)
  T09/05/26 神保町 錦町河岸
  S04/04/19 巣鴨二丁目−西巣鴨町
  S04/05/27 西巣鴨町−下板橋
  S19/07/05 下板橋(区役所前)−新板橋(板橋町十丁目)
  S19/10/05 新板橋−志村(坂上)
  S30/06/01 志村坂上−志村橋

板橋十丁目までの延長は、昭和19年7月5日とされていますね。
ただし、これらの日付は資料によって一定していない場合もあります。

実は、志村線(および板橋線)が廃止された際の装飾電車(6100と6113)に、
鉄道友の会作成のプレートが掲示されたのですが、そこには、
昭和19年12月12日 志村坂上
昭和30年 6月10日 全通     と記されているのです。
このあたり、日付の違っている事情などは、何かご存知でしょうか?

ついでながら、交通局の正式な路線の名称では、
  水道橋線(新常盤橋−神田橋−春日町)
  白山線(春日町−白山上)
  巣鴨線(白山上−巣鴨車庫前)
  板橋線(巣鴨車庫前−板橋五丁目)
  志村線(板橋五丁目−志村橋)
というふうに、細かく分けられていたようです。

志村TCさんが新撰組に入隊(?)できることを期待しています。

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[2237] しかし最近長文だらけで さっしい 2004/04/30(金)22:16 [メール]
あのぉ、常連の方や行きずりの方、引いちゃわないでくださいね。
ゴールデンウィーク特別企画とでも思って…(無理か?)
別に、2〜3行チョコチョコ〜でもいいですので、
良かったら書き込みでもしていってくださいませ。

先週のトップ画像、こんな季節に都電にしたのは、
ちょっとワケアリで、実は「今週の1枚」3周年なんです。
で、来週(明日)から少しばかり趣を変えようか…と、
今のところは思っておりまして、でも変わりばえしないかも。

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